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さんびか物語 ・・・46・・・
(広く愛唱されている50曲) ・・・45・・・
ポーリン・マカルピン著
(米国南長老教会婦人宣教師)
讃美483番
主とともならん
<神様のみ言葉>
「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身で天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」
~テサロニケ人への手紙第一、4章16~17節~
讃美歌483番“主とともならん”は、永遠の命についての非常に有名な、そして、大変美しい讃美歌といえます。
この讃美歌の作詞者ジェムズ・モントゴメリ(1771~1854)は、平信徒でしたが、チャールズ・ウェスレーやアイザック・ウオッツに次いで、よく知られているイギリスの五大讃美歌作者の一人であります。
1954年版の讃美歌には、ご承知と思いますが彼の作品は7曲収められています。そのうち169番“きけよや、ひびく”や478番“海ゆくとも、山ゆくとも”などは、よく愛唱されていると思います。
モントゴメリはモラヴィア派の牧師を父として、1771年11月4日にスコットランドのアーヴィンで生まれました。父親は自分の子供をその足跡に従って牧師にさせるために、6歳の時にヨークシャーのブルネックにあったモラヴィア派の男子寄宿学校に入学させました。
そして両親は、まもなく外国伝道のためにモラヴィア派の教会から西インド諸島に派遣されましたが、両親はそこでまもなく亡くなりました。一人ぽっちなったジェムズは14歳で学校を中退し、転々と職を変えましたが、1792年にシェフィードルの新聞編集者ロバート・ゲールズのもとで彼の新聞「シェフィードル・レジスター」の副編集者として勤めるようになりました。
ゲールズは当時の誤れる政治に対して批判的であったため、その2年後にアメリカへ亡命しなければなりませんでした。そのため23歳のモントゴメリはゲールズの仕事を引き継いで、その新聞の名前を「シェフィードル・アイリス」とかえ、編集者として31年間働き続けました。
彼もゲールズと同じように政治的にはリベラルな思想を持っていたため、新聞に発表した記事にために、2回も投獄されましたが、数年後には彼の功績を認めて、時の政府は恩給を支給しています。
モントゴメリは10歳の時から詩を書き、それが一生の間の仕事となりました。そのために、多くの本を出版し、讃美歌だけでも400ほども作詞しています。平信徒でありながら、これほどまでに讃美歌を作って教会のために尽くした人物は、彼を他にして見当たりません。
彼の作品は、年齢が増すと共に信仰の深さ、尊さ、また、神様への全き服従が輝き出し、美しく、そして力強くなっていきまして、彼の信仰の歩みそのもののように思えます。
彼の最後に残した言葉は、祈祷の言葉であったそうです。1854年4月30日、彼はいつものように祈祷を終えて床に入り眠りにつきましたが、その眠りから目が覚めませんでした。それは、彼自身が書いた讃美歌そのものと言え、ましょう。
<308>
4 いのりは御民の いのちを得る
きよけき御霊の 風にぞある。
いまわの時には 父のいえの
み門のひらくる 合言葉ぞ。
讃美歌483番の曲NEARER HOMEは有名な音楽家アーサ・S・サリバンの編曲によるものです。サリバンは、1842年5月13日にイギリスのランバスで生まれました。彼は音楽に対しては天才で、イギリスの陸軍音楽長を父としていたため8歳になるまでに、あらゆる楽器が演奏できるようになったばかりでなく、この年齢で最初の作曲をおえています。
サリバンは13歳の時にアンセム“オー・イスラエル”を作曲し、14歳でメンデルスゾーン奨学資金を王立音楽アカデミーから獲得しました。その後、ライプチッヒで音楽の勉強を続けました。サリバンは喜歌劇の作曲家として有名で、シェークスピアのテンペストが出世作となり、その他にも管弦楽、オラトリオ、カンタータや讃美歌の作曲があります。
1874年に発表された讃美歌集Church Hymnsには、彼の作品が26曲ほどと編曲したものが含まれて発表されました。その時に、アイザック・B・ウドベリの原曲をサリバンが編曲してこのNEARER HOMEも発表されました。
サリバンの一番有名な讃美歌の曲は“見よや、十字架の旗たかし”(379番)のために作曲されたST・RTRUDEであります。彼は58歳で1900年11月22日、ウエストミンスターにあった自宅で亡くなりました。
この讃美歌483番の歌詞 Forever with the lord (いつまでも
主とともにいます)は8節あり、当時この歌はたぶんロウエル・メイスンの編曲によって1824年に作曲されたOLMUTZに合わせて歌われたものと思います。しかし、1874年のサリバンの編曲では8小節のものに8小節を追加して16小節にしました。そのために、歌詞もこれに伴って4節に成りましたが、さらに1節が省略されて3節からなる讃美歌として歌われています。
<483>
1 主とともならん とこしなえに
あめなる生命ぞ かぎりのなき。
みむねならば そのいのちを
卑しき身にさえ あたえたまえ。
1節で歌われているのは、限りない、とこしえに主とともにいる天なるいのちの素晴らしさであります。神様によって選び出された民の地上での歩みと国籍はどこにあるのでしょうか。ピリピ人への手紙3章20節では「私たちの国籍は天にあります」と言われ、ヘブル人への手紙11章13節では「・・・信仰の人々は、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者である・・・」とあり、「堅い基盤の上に建てられた都を待ち望んでいる」(ヘブル11:10)者でありますから、作詞者がここで“みむねならばそのいのち(とこしえのいのち)を卑しき身にさえあたえたまえ”と、そのことを歌っています。私たちもこのような謙虚な心と信頼をもって、み国への道を歩みたいと思います。
2 行きぞわずらう 荒野のたび
夜毎にちかずく あまつわが家。
かすみのおく くものあなた
黄金(こがね)のみかどは ほのかに見ゆ。
2節では、私たちのこの世での歩みが、荒野の旅路にたとえられています。アブラハムが、神様のみ声に従って約束の地に出かけたように、私たちも神様が約束された永遠の家、あまつわが家へ旅立つのが、信仰者であるということです。この旅は非常に厳しいものであります。私たちを待ち受けているものは、苦難、失望、誘惑、試み、迫害でありましょう。しかし、“夜毎にあまつ家に近づいている”ことを知ることは大きな励ましになると思います。
この曲名NEARER HOMEは、原作の2節から引用されていて、“夜毎にあまつ家に近づく”という意味であります。あなたのこの世での旅路の目標は、どこにありますか。永遠のいのちの道の他には、永遠の滅びへの道しかありません。あなたはそれのどちらを選びますか。
2節の終わりの部分は、実に美しい絵のようです。“かすみと雲の彼方に、かすかに天国の黄金の門が見える”と歌っています。きっと、この黄金のみかどは、新しいエルサレムを意味しているかもわかりません(ヨハネの黙示録21:2)。しかし原作にあるのですが、私たちには、信仰の目がなければ、それを見ることができません。この信仰の目こそ大切であります。
3 つきぬいのち 主よりぞ受けん
いまわの時には 死にも勝ちて。
とこしなえに 主とともならん
知らるる如く われも知りて。
3節では、私たちに尽きないいのちが主イエス・キリストによって確実に保証されていることを歌っています。この「確かさ」は主よりの賜物であり、死が近づく時にも、死に勝利をお与え下さるのは主イエス・キリストご自身であると歌っています。
パウロはこの恵みをコリント人への手紙第一、15章57節で次のように言っています。
「神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」
作者もこの勝利の歌を“とこしなえに 主とともならん 知らるる如くわれも知りて”と歌って終わっています。「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。
今、私たちは一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります」(Ⅰコリント13:12)。
私たちも、その時を待ち望んで、そのための心の準備を今からいたしましょう。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」