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第82課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・35・・・
D 聖い生活を送るべきキリスト者の義務 ・・13:14・・
「それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか」(12)。
永遠の夜明けが近づいているというキリスト者の信仰は、単に論理的な問題であるだけではありません。それはまた極めて実際的でなくてはなりません。もし「夜はふけ、日が近づいている」のであれば、個々のキリスト者は、どのように敬虔で熱心で真摯な生活を送るべきであるかを考えなくてはならない。人生とはなんと真剣な問題であるかを考えてみよ。もし私たちが「日が近づいている」ことを本当に信じるのならば、どうして自分たちの思考と注意を、自分自身の野心や快楽にのみ釘付けにして、人生を流浪することができるでしょうか。
パウロはここで「日は近づいた」という真理を、キリスト者は何故真摯で真剣な聖い生活を送らねばならないかの強力な理由として強調しています。「夜」と「やみ」と罪と悲しみを連想させ、「日」と「光」とは正義と喜びを想起させる。この世の悪はやがて過ぎ去り、永遠の喜びの朝が間もなく明けて来る。これが真理であるならば、私たちは闇の業を捨てて、光の武器を着けるべきである。私たちは恥とすることや、隠れて行うようなことを捨てなくてはならない。同時に、私たちは日の光にふさわしいものをもって自ら装うべきである。衣服を脱いだり着たりするという思想は、原語のギリシャ語から分かることである。「私たちは一揃いの衣服を脱ぎ捨て、もう一つの揃いの衣服に着替えなければならない。夜にふさわしい衣服を脱ぎ捨て、日にふさわしい衣服をもって装わなくてはならないのである」(C・ホッジ)。
「そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか」(13節)。
この個所は前節の思想の継続であって、どのような業をキリスト者は捨て去るべきかを指摘し、次の節においては、どのような業を身に着けるべきかを教えています。
パウロは先ず捨て去るべき三つの罪を指摘し、各々の罪に二つの用語を用いています。①宴楽と泥酔、②淫乱と好色、③争いとねたみ。①の類は不節制・放縦の罪、②の類は不潔の罪、③の類は不和の罪です。注目すべきことは、いかに広い範囲の罪が、ここで語られているかということです。ある人は罪はそのうちの一種の罪であり、また他の人の罪は他の種のものであるかもしれない。ある人は不節制の罪を犯さなくても、不潔の罪を犯しているかもしれない。また他の人はこれら二つの罪を犯していなくても、不和の罪を犯して、教会の平和を乱しているかもしれません。もし私たちが不断に不和の罪を犯して、神を悩まし、人々を不快に陥れているとするならば、たとい不潔や不節制の罪を犯していないとしても、神のみ前に決して喜ばれるものではありません。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」