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「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・62・・
問22 「救い」ということが「罪と死からの解放」を意味するものであることは分かりましたが死からの解放としての「復活」については、どうもよく理解できません。
答・・5・・
死は人間の側から見れば絶対の終わりです。しかし、神の側からすれば、人間の死は絶対的なものではなく、その死をもって、神は、永遠の命へと生かす力を持った存在として絶対者であられることを、神に従って生きたイエスを復活させられたことによって、相対化される方であることを証された、ということができます。その意味で、イエスの復活は、人間の側で絶対視していることが、神によって相対化されたことであり、そのことが真の絶対は神の側にあることが明らかにされたことであったと言えます。
パウロが、死人の復活において「死は勝利にのみ込まれた。死よ。お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」という預言者(イザヤおよびホセア)の預言の実現として、絶対化されていた死の壁は破られたとしているのは、まことの絶対者に出会って開眼を得たに他ならないと思います。
人間は相対的存在に過ぎないのに、しかもその相対性を位置づける視点を持ち得ないままで生きています。イエスの復活は、その相対性を明らかにすることによって、人間がとらわれ、閉じ込められていたものからの解放を、神が、人間に与えられたこととして、受け止められることであります。復活はそういうこととして信じられることです。
パウロが「キリストを信じて洗礼を受けたということは、キリストと共に葬られ、その死にあずかる者となった」と言っていることは先に引用したことですが、これは、洗礼を受けるということは、キリストが死なれたその死に自分もあずかったことなのだ、と言っているわけで、平たく言えば「キリストの死はわたしの死であった」ということです。
こういう言い方は、パウロ以外の人からも聞くことがあります。たとえば、最愛の人を失った人が「わたしの人生はあの人が亡くなったことで終わってしまった」という声を聞くのです。この人にとっては、その最愛の人と共に生きていた時の自分が自分であったのに、その共に生きてきた人が亡くなってしまったのですから、それは、その時をもって、今までの自分がなくなってしまったことになるからです。
自分を自分として生かしているものも大切な者との関りなどまったく持たない人にとっては、どうということはありません。最愛の者を失った後、それは、ほかの何物によっても補うことが出来ませんから、最愛の者の死は、それまでの自分の死でもあるからです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2018年2月のラジオ放送予定>
2月 4日 小室尚子 (金城学院宗教主事)
11日 小室尚子 (金城学院宗教主事)
18日 落合建仁 (金城学院大学宗教主事)
25日 落合建仁 (金城学院大学宗教主事)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」