[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・4・・
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへ時間」ラジオ説教者)
3 最初の受洗者
先生の日本語教師矢野元隆は、成仏寺の集会や先生との接触、聖書翻訳の仕事を通じて、次第に信仰の芽生えが成長した。病身の彼は、この年の1月20日頃には病床の人となって、自分も再起不能を悟ったのか、先生に受洗を申し出た。バラ先生は、たびたび彼の病床を見舞っては日本語で祈り、また彼の信仰の徹底を願われた。彼も先生からヨハネ伝翻訳を托されていたので、次第に聖書の真理を悟るようになり、キリストへの信仰を熱心に求めるようになったのである。
バラ夫人はその日記に「先生(矢野のこと)は誠実に真理を求めつつあることは明白なり。ヘボン博士は彼が到底恢復の見込みなしとなす。比に於いて11月第一の安息日、彼に授洗することに決したり」(植村正久とその時代1巻)とある。1864年(元治元年)11月4日(聖日の朝)、矢野の宅にバラ先生はヘボン博士と同行した。ヘボン氏は長老として祈祷をささげ、バラ師は彼に洗礼を授けた。この洗礼式には、矢野の長男が立ち会っていた。
翌日、バラ先生夫妻は矢野を訪ねられた。矢野は肘で辛うじて起き上がり、床に頭をつけてバラ夫人に「私は最後の御暇乞いを申さねばなりません。私は間もなくイエス様にお目にかかりましょう。お目にかかったら、私はあなた様と親切な御主人とが、私のためにして下さったことをキリスト様にお話しいたします」と言った。
バラ夫人はこの事を手紙に「異教国の改宗者のよって、私の名をイエスに告げられることよりも更に貴いものがこの世にありましょうか。私は私の全生涯に於いて、これを最も幸福な出来事と思います。主よ、私が喜びの冠にこうした宝玉を多く与え給へ」と記している、
その年の12月4日(月曜日)、矢野は天に召されてこの世を去った。彼こそ日本伝道の最初の受洗者であり、またさらに日本初代宣教師たちの手となって、マルコ伝、ヨハネ伝 、創世記、出エジプト記などの翻訳に貢献した人であった。
矢野元隆受洗年月についての説
矢野の受洗年月日について、日本のキリスト教史家に2つの異なった説がある。
1 1864年(元治元年11月4日)説
日本基督教会史 山本秀煌(ひでおき)編
植村正久とその時代(第1巻)
ドクトル・ヘボン伝 高谷道男著
日本プロテスタント史研究 小沢三郎著
日本基督教史 比屋根・安定著
J・H・バラ年譜 J・A・マカルピン編
横浜海岸教会百年の歩み
近代日本とキリスト教 (明治編)
日本キリスト教史 大内三郎著
日本基督教史 柳田友信著
明治文化史 岸本英夫著
2 1865年(慶応元年11月5日)説
横浜海岸教会会員名簿(写し)
日本の聖書 海老沢有道著
日本の近代とキリスト教 森岡清美著
日本社会とプロテスタント伝道 工藤英一著
(註)
筆者は1864年(元治元年)説を採るが、その主な根拠は、植村正久の手記ならびにバラ先生の文献に基づくJ・A・マカルピン氏のバラ年譜を可とするのである。1865年(慶応元年)説は、思うに横浜海岸教会会員名簿によってのものと思われるが、今日の会員名簿は、大正12年に焼失した原本の写しであって、横浜海岸教会長老林翁氏の筆になるものであるが、原本に記入の時、すでに誤記されていたのではないかと思われる。会員名簿には、矢野玄隆とあって元隆と相違するが、江戸期の医師には「玄」の字の使用例は医師の慣習的用語とも考えられ「元」の字は、「玄隆」の玄を音読による後世のあて字ではないかと思われるふしがある。しかしこの年代決定は後日の研究に待ちたい。
*この文章は、月刊「つのぶえ」からの転載で、「つのぶえ社」から許可を得ています。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」