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解説 ウエストミンスター信仰告白(66)
岡田稔著
(元神戸改革派神学校校長)
第30章 教会の譴責について
4 このような目的をより良く達成するために、教会役員は、犯罪の性質と犯罪者の過失に応じて訓戒・主の晩餐の礼典からの一時的停止・また教会からの除名などの処置をとらなければならない(1)。
1 Ⅰテサロニケ5:12、Ⅱテサロニケ3:6,14,15、Ⅰコリント5:4,5,13、マタイ18:17、テトス3:10
四 ここには、譴責の種類が軽いものから重いものへと順番に記されている。教会の政治の性質に応じて、その罰則は、どこまでも、肉体的苦痛を伴うべきものではなく、また、除名以上に過酷なものは存在しえない。
日本キリスト改革派教会の政治基準第12条には
「教会権能は全く霊的であって、二様に行使される。2 役員がこの権能を、職制によって個別的に、福音の宣教・礼典の執行・過誤の戒告・病者の訪問・悩める者の慰安において行使するとき、これを職制権能という。 3 役員がこの権能を、同等の資格で共同的に、教会会議において教会規程に従って行使するとき、これを議会権能、または法治権という」とある。
<付注>
神は人類社会の唯一の統治者である。しかし人類社会には二つの別の領域があって、その統治の性質が異なっている。これは人間が霊魂と肉体という二つの性質の異なった要素からできていることに対応する神の立てた秩序である。現在、日本では教会に当たる霊的秩序が甚だしく不統一(と見えている)であるので、国家的スケールに対して云々できる程強大な勢力だと思われないが、それは異教世界、多神教社会の必然的な不統一性の現われに過ぎない。
パウロがローマ人への手紙1章16節で言っている福音の力のスケールからは、むしろローマ帝国に匹敵する世界教会が念頭にあったと思われる。中世ヨーロッパはそのようなスケールで国家的統一と教会的統一が並んで進行した。近世になって、民族国家が成立すると時を同じくして、教会もそれぞれの自治社会に、それぞれの教会、教派が発生した。ウエストミンスター信条が作成された当時の歴史的状況は、このような国家権能と教会権能の相互独立という真理が、明確に自覚された時代あることを先ず念頭に置く必要があろう。
確かにその統治権の性質は根本的に別であるが、それが統治であることに変わりはない。従ってこの統治者(統治権をゆだねられた役員)とその組織は一人二役ではなく別個である。
この事実を明確に自覚したのが長老教会・改革派教会の教会観、教会と国家に関する教理である。
教会政治には大別して3つの原則を主張するグループがある。
1 監督制、その一番右翼が法王制である。
2 会衆制、その左翼が独立教会制。
3 は両者の中庸をとった長老制。
しかし、無教会主義や個人主義的信仰を主張する人々には、教会の統治制度そのものが不必要と考えられている。霊的事柄には統治制度というような地上的権力の入り込む余地はないと思われている。
しかしわたしたちは、聖書の中に、長老制の原則的実施が既に存在している事実を認め、また霊的と言っても、地上の人間が肉であることを自覚する以上、この統治の存在意義を確信するところである。
特に、生活における教会の一致・純潔を保持する上での、一定の訓練戒規の必要性を信じている。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」