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今月のことば
求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
~マタイ7:7~
2018年も2月を迎えました。若い方々は受験という大きな扉に向かって果敢に挑戦する姿は、その経験をすでに終えた者は眩しい輝きに見えます。失敗を恐れず何かを追い求め、何かを捜し、何かを求め続けることを、生涯の友とする人生、日々は素晴らしいことです。
私たちが神様のもとへ、何かを願いに行く時は、誰も開けてくれない扉をたたくことではありません。心狭い者のところへ物乞いに行くのでもありません。私たちを迎えるために使いをよこされ、私たちに祈ることを教え、必ず得させると約束してくださった方のところに行くのです。
祈りを命令されたものであり、神様が私たちに負わせた重い義務であるかのように思うとき、祈り心はしぼんでしまうでしょう。私たちの無能と神様の全能とを示すことを捜し求めるなら、疲れ果ててしまうでしょう。
そうではありません。祈りは、私たちが憐れみを受け、助けを必要とするときに助けてくださる恵みを見出すことのできる「時」なのです。神様のみ前にある扉を開いていただく、とても大切なことなのです。「義務」ではなく、「権利」であります。
もし、この世ですべての扉が私たちに閉じられていたとしても、この世のすべての自由と力が奪い取られ、失っても、私たちには奪い去られない「祈り求め、捜し続ける」恵みの「祈り」があるのです。信仰の先人たちは、私たちは神様に、人生で自分に起こるすべてのことについてお話しすることが出来ると教えてくれます。救いのために祈ることから、罪の赦し、日々の仕事や家族のこと、健康のこと、そうして大切な隣り人のことを、神様に祈り、その答えを捜し求めることを、お許しくださっています。
「神に生きる」。それは、私たちの生活や仕事、健康や病気であっても、すべて、祈りの中で、神様に語り、希望と喜びを持って歩む「祈りの日々」でもあります。それは、誰にも等しく与えられている恵みです。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」