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第82課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・36・・・
D 聖い生活を送るべきキリスト者の義務 ・・13:14・・
「あなた方は、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」(14)。
ここでは、積極的な面が述べられています。キリスト者は闇の業を捨てるだけではなく、光の武具を着けなければならないのです。不節制や不潔や不和という、闇の衣を脱ぐだけでなく、その代わりに主イエス・キリストを着けなくてはならないのです。
「主イエス・キリストを着る」ということの意味は、「私たちの中にイエスが生きておられるのを、人々が認めるほどにキリストと密接に結びつく」ということです。それはまた、聖霊に満たされ、その導きの下にあって、私たちの生活が、周囲の人々に対して、キリストが生きておられることを示すようになることです。
「肉の欲を満たすことに心を向けるな」。
ここの「肉」を「肉体」と同一視する人がいます。しかし、それは正しくありません。「肉」という表現は不節制と不潔の罪を含むだけでなく、不和の罪をも含むものであると言わなければなりません。不和の罪は心の罪であって、肉体のみの罪ではないからです。パウロは、この書簡の他の個所で、「罪」を人間の人格のにおいで腐敗しているすべてのもの、すなわち、私たちの罪に汚れた有罪的人間性の意味で用いているのです。
ガラテヤ書5:19~21でパウロは、17節の「肉の働き」を列挙していますが、それらは肉体による罪だけでなく、心の罪をも入れています。すなわち、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、ねたみなどです。
もし「肉の働き」が心の罪をも含むのであれば、ここの「肉」を決して肉体の意味で、パウロが用いているというだけではない。それか私たちの罪に汚れた人間性全体を意味するものでなければなりません。従って、ここのパウロの勧め全体の意味は、「あなたがたの罪に汚れた人間性より出る欲望に、わが身を委ねてはならない」(ホッジ)ということです。
キリスト者はこれらの欲望を持っています。彼らは決してこれらの欲望から完全には解放されていません。それらはキリスト者にとっては依然として重荷であり、誘惑なのです。しかし、キリスト者はそれらに屈服してはならないのです。彼らは決してそれらの欲望に、自分たちの人生を牛耳らせてはならないのです。反対に、それらの欲望を屈服させ、制御し、十字架につけなければならないのです。そうしてこそ、夜明けを迎えることができるのです。キリスト信者よ、雄々しくあれ、キリストは私たちの首(かしら)として、すでにそれらに勝利しておられるのです。「勇気を出しなさい。わたしたちはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33)のです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」