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「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・63・・
問22 「救い」ということが「罪と死からの解放」を意味するものであることは分かりましたが死からの解放としての「復活」については、どうもよく理解できません。
答・・6・・
ところが、この死が、新しい命に回復されることがあります。それは、死んだ最愛のものの甦りによってです。新しい命といったのは、以前の体そのままの命の再生ではなく、霊的という質的に新しい命としてであります。
私の個人的な経験について言えば、父母が亡くなった後、私は帰るべきところを失いました。それは、言い換えれば、帰るべきところを持っていた自分は、父母の喪失によって、父母と共に失われてしまったということです。しかし、しばらく経つと、父母は生き返ってきました。特に私を愛してくれた日々の父母の姿が、父母が生きていた時には大して感じなかったものが、今や鮮やかに「ああ、そうだったんだ」と言えるような姿で、現れてくれるようになったのです。こうして私は、帰るべき地上の場所を失いましたが、今、父母と共に立つというところを与えられました。これは、失われていた私が新しい私へと変えられた、ということとして考えてよいのではないかと思います。
こういう経験は、多少の違いはあっても、多くの人にとっての共通していることではないかと思います。
以上のことから言って、私は、キリストの弟子たちが復活のキリストに出会った復活のイエスは、見てそれと分かる具体的な姿で現れたのではなく、弟子たちに語り掛ける存在として今も生きていることを示されたのでした。これは視聴覚を超えた霊的なことであり、信じられることでした。
私たちは、時に「お任せします」ということがあります。委任状を出すこともあります。それは、ある事柄の処理決定について、自分以外の誰かに委ねることでありまして、それは、その時点において、自分というものを自分とは別の人のものにしたことを意味します。勿論、そうであるからには、お任せする相手を全面信頼してのことであります。
それはまた、自分のことでことを処理するよりも、もっと優れた処理決定や指導をしてもらえるに違いないという信頼であります。ある意味において、私共の人生はお任せに終始している、と言えるものではないかと思います。
生まれた時から成長するまでのことは、父母にお任せしていますし、学校の先生や先輩の指導に自分をお任せしています。この「お任せすることが出来る他者」が存在していることが、自分の生存・成長・充実・補完等に不可欠なことであります。他人に手を引いて貰わなければならない時も来ます。
そうなったら、引いてくれる手に委ねることが、自分のこれからを生きていくのに欠かせないことです。委ねることが出来る存在があるということは、そういう意味において幸せなことであります。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2018年3月のラジオ放送予定>
3月 4日 橋谷英徳 (日本キリスト改革派関教会牧師)
11日 橋谷英徳 (日本キリスト改革派関教会牧師)
18日 遠山信和 (日本キリスト改革派静岡教会牧師)
25日 遠山信和 (日本キリスト改革派静岡教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」