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バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・5・・
水垣 清著(元中津川教会牧師・元「キリストへ時間」ラジオ説教者)
4 犬小屋の英学塾
1666年(慶応2)、バラ夫人は故郷訪問のため、米国バージニア州に二人の子供を連れて帰った。バラ先生はそのため、サンフランシスコまで妻子を送って行き、すぐまた日本に帰られたが、夫人は郷里に数ヶ月滞在されたのであろう。その年の10月には、後の大蔵大臣となった高橋是清氏がバラ夫人から英語を学んでいた。彼の自伝によると慶応2年彼が13歳の時「横浜に出てから最初の間、私と鈴木六之助とはドクトル・ヘボンの婦人について英語の稽古をしておった。たまたまヘボン夫妻が帰国することになったので、同夫妻は私らを当時横浜在住のバラと言う宣教師の夫人に託して行った。それで我々両人は、毎日朝早くからバラ夫人の宅へ出かけては稽古した」。(高橋是清自伝史公文庫28頁)と記しているが、彼が2・26事件で仆(たお)れたときも机上に聖書が置いてあったと言う。
当時、青雲の志を抱いていた武士の子弟や青年たちは、新しい時代の文化を求めて横浜に来て日本の唯一の英学校であったバラ先生やヘボン博士、ブラウン宣教師の英学所に集まって、英語で聖書を学ぶ機会を得たのである。バラ先生の願いは、青年に英語を教えることではなく、伝道してキリストの福音を宣べ伝えることであった。従って英語の教授はバラ夫人がこれに当たり、先生は不自由な日本語で手まね身振りで聖書を教えられた。
バラ先生が日本で最初の礼拝を開始されたのは、先の矢野元隆と先生の家の召使いたちとであった。それは規則正しく聖日礼拝が守られ、町人、武士たちも集まって12、3名の集まりとなった。その礼拝の順序は、祈りと十戒の朗読で始まり、聖書の1章の講解と奨励であった。まだその頃は讃美歌は歌われず、英語の読める者は英語の聖書を持ち、英語の読めない者は漢訳の聖書を持ち、漢文の読めない者は黙って聴くだけであった。先生の日本語教師の矢野が聖書を読んでバラ先生が説明した。そして祈りをもって閉会したが、矢野は聖書の翻訳に関係していたので、聖書の知識もあって先生の話の説明に役立った。この礼拝こそバラ先生にとって、もっとも楽しい時間であった(1867-慶応3-第61回北米改革派教会大会議事録)と、本国の教会に報告された。
混沌とした日本の変革期(明治維新)を前にして、バラ先生は聖書の翻訳と英学所の語学教授による教育伝道に忙しい日々を過ごされた。医療伝道に従事したヘボン博士の談に「1887年8月、バラ、タムソン両氏と私自身、私の診療所にマタイの福音書を翻訳するために集まり、われわれは約9ヶ月の作業で完了した。この訳は再び私の手で改訂した。これはS・R・ブラウンと私自身とで改訂し、1873年に出版した最初のマタイ福音書の基礎をなすものである」(米国長老教会伝道局講演=日本の聖書=122頁 海老沢有道著)からも察せられるように、バラ先生の日常は多忙であった。
バラ、ヘボン、ブラウンの英学所出身者で将来活躍した人物に、医学者三宅秀、外交官・実業界に林董(たたす)、益田孝、服部綾雄などがある。一方、長崎にあって、同じ米国オランダ改革派教会の宣教師として活躍していたG・H・フルベッキも英学塾を開いて青年武士たちを指導し、さらに肥前佐賀藩の重臣村田若狭守政矩とその末弟綾部恭の二人が、1866年(慶応2)5月20日の五旬節にフルベッキより受洗した。
フルベッキは長崎に留まること10年、西郷隆盛、後藤象二郎、江藤新平、大隈重信、副島種臣たちが彼の下で教えを受けた。彼はまた、福音宣教のために身を挺して大胆にキリストのために突進した。その後、政府の文教顧問に聘せられて大学南校(後の東京大学)の創設のために尽力した。燃えるような伝道の熱心は、横浜、長崎という東西の門戸を通じて、日本の夜明けに福音のともしびが点じられた。
1868年(慶応4)5月、バラ先生からの受洗者は粟津高明と鈴木貫一の両名である。粟津は膳所藩出身の士族で桂二郎とも言った。彼は在仏の日本公使館に勤める外交官になったと言う。鈴木貫一も同様に膳所藩士であった。
この年、9月8日を明治と改元して、以後政府は一世一元とすることを定め、翌10月には天皇の東京遷都が行われて、旧幕府勢力は一掃され、封建的幕藩体制から近代国家へと移行する機会に、江戸(東京)を首府と定めたのである。
この明治変革のため日本国内は内乱となり、明治元年の鳥羽伏見の戦争、江戸征討軍の進撃、旧幕臣を主体とした彰義隊の叛乱戦争、さらに奥羽の会津戦争、越後(新潟)の北越戦争、続いて函館戦争など、国内の人心は、激しく動揺しているうちに、明治政府は戦争によって旧幕府の勢力を一掃して、近代国家の組織を目指し、富国強兵策を打ち立て、国家資本の創出という建前から欧米の進んだ産業技術、経済的制度、政治、法律、文教などの西洋文化移入のために外人の学者、芸術家、技術者、医師、教師などの指導者を招聘して雇用した。
1872年(明治5)の諸官庁の雇用外国人は214名に及び、その国籍はイギリス、アメリカ、フランス、ドイツが主であった。従って、これら外人の居留地として横浜は次第に発展し、日本の文化都市として急激に膨張した。しかしながら、明治政府は宗教に関しては江戸幕府の古い仏教国教策に変えて、神道国教化の方針をとり、キリスト教に対する禁教政策は少しも変えようとはしなかったので、居留地の外人に出入りする日本人を厳しく監視し、また特に宣教師の行動には諜者を用いて詳細にそれを調査し報告させた。
その頃、明治2年に九州の浦上で捕らえられた隠れ切支丹の信徒三千余人が、名古屋以西の21藩に配分流刑に処せられていた。特に宣教師の多い横浜は居留地に出入りする日本人へ厳重な警戒の目が光った。このような状況の中にも、日本人の町では許されなかったが、横浜の居留地に小会堂を建て、これを利用して英学を志す青年たちに、バイブルを教えつつキリスト教伝道が出来ると感じたバラ先生は「聖なる犬小屋」(Sacred Dog Kennel)と呼ばれる石造りの小さな礼拝堂をこの年、1871年(明治4)に建てたのである。そして、20余名の学生が日本全国から英語の学習を求めてここに集まって来た。
この小会堂について植村正久は「部屋が二つに仕切られ、その間の壁の左右に戸があって、より大なる一部分は家の三分の二を占めた。4人掛けの腰掛が二列に置かれ、すべてで20はなかったろう。すっかり詰めても6、70人しか集まれない。別に講壇はなかった。一脚のテーブルと一脚の椅子が置かれた」と思い出を記している(植村正久とその時代 第一巻446頁)。
*この文章は、月刊「つのぶえ」からの転載で、「つのぶえ社」から許可を得ています。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」