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さんびか物語 ・・・48・・・
(広く愛唱されている50曲)
ポーリン・マカルピン著
(米国南長老教会婦人宣教師)
讃美525番
めぐみふかき 主のほか
<神様のみ言葉>
「この方(主イエス・キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も人間に与えられていないからです。
~使徒の働き4章12節~
恵み深き主イエス・キリストのほかには、誰によっても、まことの慰めも心の平安もないことを深く信じていたクリスチャンがおりました。その人は讃美歌525番の原作者アニー・シャーウッド・ホークスであります。
彼女は1835年5月28日ニューヨーク州のフースィックという小さな村に生まれ、14歳の時から新聞の懸賞詩に応募するために詩を書きましたし、当選もしていました。アニーは、1857年にチャールズ・H・ホークスと結婚し、その2年後に夫妻はニューヨークのブルックリンに移りました。そこでホークス夫人はハンソンプレス・バプテスト教会の熱心な会員となりました。また、讃美歌の作詞・作曲家であったこの教会の牧師ロバート・ローリ博士の影響を受けて、作詞を始めています。(ロバート・ローリについては讃美歌530番をご参照ください)。
1954年版の讃美歌にはローリの作品が3つ収められていまして、525番と530番、そして535番であります。彼の作品は本来福音唱歌として作詞・作曲されたもので、英米人の間に広く愛唱され、525番の方は、今日でもなお歌い続けられています。日本でも、明治時代からクリスチャンにひろく愛唱されている歌であります。
さて、アニー・ホークスは1868年頃からローリの励ましとすすめによって讃美歌の作詞を始め、その数はおおよそ400種にものぼり、主に日曜学校用讃美歌を作りました。この525番の“めぐみふかき主のほか”は、その数多い作品のうちの一番優れたものであります。
この讃美歌の作詞のきっかけになったのは、彼女の持っていた大きな悩みとか苦しみなどから湧き出たものではなかったそうです。むしろ、彼女はある日、家庭の主婦、また三人の子供の母親としての忙しさの中にあっても、主イエス・キリストが共にいまし給うことを深く感じて、キリストと共に生かされている喜びをしみじみと味わったそうです。忙しい日々の中にあっても、神様の恵みを覚えつつ讃美している彼女の信仰に心打たれると思います。
その時に感じさせられたことは、“主を抜きにしては、人間はいかにして生きて行くことができましょうか”ということでした。そして彼女の心の泉から湧いてきたものがこの讃美歌のタイトルである「Ineed Thee every hour」でありました。これを日本語にいたしますなら、「私は一時間たりともキリストを抜きにしては生きて行くことができない」という意味になりましょう。
このneedという言葉は、非常に強い言葉でありまして、普通は「必要である」とか、「要する」とかのように訳します。原作では、この題の「Ineed Thee every hour」は、1、2、3、4、5節の一行目として歌われています。また、「おりかえし」もneedという言葉が三回繰り返して歌われています。そのように、このneedという言葉は、意味以上にたくみに用いられていますが、日本語訳にはその言葉や意味の見られないのには、私にとりまして、大変残念に思います。
ついでですが、この「おりかえし」の部分は、ロバート・ローリが作ったもので、曲I NEED THEEを作曲したときに、この讃美歌に付け加えたものであります。また、この讃美歌は1872年のバプテスト日曜学校教会大会用の小歌集に発表され、その後、当時の偉大な伝道者ムーディーやサンキーの大集会に用いられて非常にポピュラーになりました。
アニー・ホークスは、この525番の讃美歌を、自分の手で作詞したにもかかわらず、その意味するものが、自分自身にとって予言的であったと言っています。それは、彼女の夫を1888年に亡くした時、はじめて、恵み深き主の慰めを自ら味わうことが出来ました、と証ししたそうです。
このような時には、まことの主のほかに誰も私たちを慰めることは出来ません。ご主人を亡くした彼女は、その後バーモント州のベニントンに住んでいた娘のところに行って、そこで、1918年1月3日、83歳で亡くなりました。
讃美歌525番は日本語訳と原作とでは、いろいろな点で違いがありますから、それを比較しながら共に歌詞を考えてみましょう。
<525>
1 めぐみふかき 主のほか、
たれかわれを なぐさめん。
(おりかえし)
わが主、わが神 恵みたまえ、
ただ頼りゆく わが身を。
1節ですが、前に申し述べましたように、この讃美歌の原作の中心点は「Ineed Thee 」という言葉にありますが、残念なことにはこの“魂を求め”“神へのあこがれ”といった切迫した心の叫びがみられません。作詞者がここで強調しているのは、どのような状態に陥っても、主イエス・キリストは、私たちクリスチャンにとって、絶対に必要なお方であられるということであります。
原作では非常に明白に歌われています。それは“あなたのやさしい御声だけが平安を与え給う”と歌い、「おりかえし」では、1節にある強い断言に付け加えて、“主よ、今あなたのところにたち帰りますから、どうか、私を祝福してください”とあります。
何と素晴らしい信仰の告白でしょう。
2 わが主ともに いまさば、
あくまわれを いかにせん。
2節の日本語訳は実に素晴らしいものと思います。“わが主ともにまさば、あくまわれをいかにせん”はペテロの手紙第一、5勝8節、9節のみ言葉を思い出させます。そこには「・・・あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい」とあります。この悪魔に立ち向かい打ち勝つただ一つの方法は、この讃美歌が歌っていますように、“主とともにいること”なのであります。
次に原作の3節ですが、おしいことに日本語訳には省略されています。この原作の3節で歌われていますことは、“主よ、喜びにも、苦しみにも、共に居給うように”と願うものであります。また、“あなたが速やかにおいでになって共に宿ってくださらなければ人生はむだである”と作者は歌うのであります。神様を知らない人生の虚しさにまさる虚しさはありません。
3 きよきみむね おしえて、
はたしたまえ みちかい。
3節ですが、原作の4節とはよく似ています。また、ここに歌われている言葉は、私たち一人ひとりの祈りでなければならないと思います。神様の“きよき、みむね”の何であるかは、祈りによって教えられ、神様の豊かな“お約束”が私たちのうちに働かれるようにとも祈るべきであるからです。
4 とうとき主よ、 われおば
きみのものと したまえ。
4節ですが、これは原作の5節にあたるもので、歌詞はほとんど同じです。ここで歌われている“とうとき主のもの”となるために、私たちは、何を、どのようにすべきでしょうか。それは、キリストにとどまることによってのみ、実現することであります。しかし、大変難しいことです。ですから、あきらめてはなりません。イエス様が弟子たちに語られたように、私たちはみな“まことのぶどうの木”であられる主イエス・キリストにつながっていなければなりません(ヨハネ15:1~)。
ぶどうの木の枝として、キリストからまことのいのちを得、生き生きとした枝になり得るのは、いのちの木・源につらなっているからであります。このイエス様との深いきずなにあることこそクリスチャンの慰めであり平安であると、私は確信をもってみなさまにおすすめいたします。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」