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小閑記
しかし、働きはなくても、不信心な者を義とする方を信じる人は、その信仰が義と認められるのである。
~ローマ4:5~
人生や日々の生活も信仰生活も、何もかもがうまくいくことなど有り得ないことは誰もが認めるところです。信仰者も例外ではありません。あまり使いたくない言葉ですが「裏目に出る」ことはよくあります。全てのことが落胆の種となる時期があります。心の中に、なす術を見失う時、反省と自分を責めることのみが、全てを覆い尽くす時があります。
全てが苦痛で、罪で、偽善であるように思われます。「わたしはかくあると装っていたのではなかったか」と自分の信仰を疑い、破れと汚れに満ちた自分に心うめく時があります。神の御手を見失い、「信仰は弱まり、希望は揺らぎ、光は消えて、魂は闇となりぬ」と詩人は告白します。
確信と自由とを求めて生活していたキリスト者の多くが、このように嘆くのです。
このような「信仰の闇夜」の中に踏み込んだとしても、神様の愛と導きは、そのような私たちの心の側にあるのです。神様の御手を待つ思いが与えられていること、残されていることを思い出すことです。
たとえすべてのものから見捨てられても、「神様の愛の救いの御手は待っている」のです。「不信心な者を義とする方を信じる」ことに希望と光がそこにあることを、今一度覚える時を祈り待つのです。
「目には見えない御神」
雪が解けた道端に 咲いたルリ色の花に
目には見えない御神の 憐れみに触れ 恵みを見る
芽吹き始めた梢に さえずる小鳥の声に
目には見えない御神の 憐れみに触れ 恵みを聞く
与えられた賜物を 分け合うその優しさに
目には見えない御神の 憐れみに触れ 恵みを知る
水野源三 第四詩集より
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」