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今月のことば
わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕らえようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕らえられているからである。
~ピリピ3:12~
人の喜びは、何かを求めて真摯に捜し、求め続けている時です。それを聖書は、私たちに教え示しています。それを「キリスト・イエスによって捕らえられ」と言うみ言葉で示しています。単なる心の開放とか願望の実現とかではなく、「キリスト(救い主)に捕らえられている、救いの中にある今を感じられることは、人生最大の喜びである」と言うのが、私たちに提供されている神様からの招きの言葉であります。その招きを知ることは、神様に捕らえられ、主イエス・キリストを追い求めている姿とも言えます。
信仰によって救われるということは、信仰の目的に達したということではありません。それは目的に達する道を見出したということであります。私たちは救われるために、救われたのです。栄冠を求めて日々訓練・鍛錬・練習に励んでいるアスリートのあの汗の美しい輝きは、最高の冠です。神様が下さる信仰の冠はそれ以上のものです。
こうも言えます。私たちが、危険から逃れている、また、全く悪より離れているという意味で「完全な者ではない」と言うことです。だから、追い求めているのです。私たちがキリストを仰ぎ見ると、キリストは全て完全です。私自身を見ると全てが不完全です。それゆえに、キリストにあこがれ、苦しんでいてもキリストからの栄冠を得ようとするのです。その時のゆがんだ顔、苦痛の汗、涙の滴は、追い求めている者の栄えある冠なのです。
励まし合い、支え合い、祈り合って生きましょう。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」