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第83課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・37・・・
E 弱い兄弟たちに対するキリスト者の義務 ・・14:1~13・・
・・・1・・・
ここの個所においては、パウロは弱い兄弟たち、すなわち、それ自体は道徳的に中立であるいろいろの事柄について疑念や咎めを感じている人々に対して、キリスト者はどのように対処すべきかを述べています。私たちは、ここでパウロが論じている「弱い兄弟たち」というのが誰であるのかを正確に知ることではありません。
この点について諸説があります。しかし、最も妥当であると考えられる説は、弱い兄弟と言われている人々の多くは、ユダヤ人キリスト者たちを指しているのであって、彼らは食物についての儀式律法の命令を守っているばかりでなく、その命令の侵犯を恐れるあまり、行き過ぎてしまっている人たちであるとする説であります。
初代キリスト者たちの多くはユダヤ教的背景を持っていました。従ってキリスト者にとなった以後も、彼らは聖い食物、聖くない食物といった旧約の儀式律法を守らなければならないと感じていたのであります。食物の規則の他にも特定の祭りの日の規則などがありました。このようなことは明らかに諸教会の中に、特にローマにある教会の中に問題を引き起こしていました。もしこの問題が不注意に取り扱われたならば、深刻な事態が生じる可能性があったからです。
これを正しく理解するためには、先ず旧約の儀式律法に従わなければならないと考えている人々は間違っているということを理解しなければなりません。パウロはこの問題を両方とも正当であるとか、両方とも部分的には正しいとか言った問題として取り扱ってはいません。パウロは一方は正当で他方は間違っている問題として扱っています。そうして、正しい人の立場は誤った立場の人たちの取り扱いについて思慮を払わなければならないと言っています。
使徒行伝15章にある使徒会議は、儀式律法はキリスト者を拘束するかどうかという問題について、拘束しないという結論を下して決着をつけた会議でした。ローマ書14章において、パウロは教会において、儀式律法に従わなければならないと感じている人々は例外的存在であると見ています。パウロはこのような人たちを愛と同情と忍耐をもって取り扱わなければならないが、しかし同時に
それらの人たちのそのような考えは間違っていると言っています。
彼らは信仰における弱さのゆえに、そのような考えをするのであり、「弱い」というのは未熟の意味と考えてよいのです。弱い人々のこの考えは間違っているから、教会全体の上に課せられるべき教理や信条の中へ加えてはならないと言っています。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」