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さんびか物語 ・・・49・・・
(広く愛唱されている50曲)
ポーリン・マカルピン著
(米国南長老教会婦人宣教師)
讃美527番
わがよろこび わがのぞみ
<神様のみ言葉>
「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」。
~詩篇37編4~5節~
昔ダビデ王が「主をおのれの喜びとせよ」と歌いましたように、讃美歌527番の作詞者ジョゼフ・スウェインも、“主はわが喜び、わが望み、わがいのちの主である”と心から歌っています。
ジョゼフ・スウェイン(1761~1796)についてですが、あまり詳しいことはわかっていませんが、イギリスのバーミンガムで生まれ、ジョン・フォーセット(讃美歌403番を参照ください)と同じように、幼い時から職人のところに奉公にやられていました。しかし、スウェインはその後ロンドンに戻って信仰に入り、有名なカーターレインバプテスト教会の牧師ジォン・リポンから洗礼を受けました。
非常におもしろいことですが、ジョン・フォーセットは、この教会からの招聘をことわって、ウェインズゲートで貧しい牧会に戻ったことによって、ジョン・リポンがかわりに牧師として一年の約束で臨時として招かれました。しかし、翌年には正式に招かれて63年の長い間、素晴らしい牧会を続けました。また、牧会の他に讃美歌集も数多く出版しました。
讃美歌163番の“あまつみつかいよ”の5節の作詞者であったそうです。この5節は後からペロネットの歌詞に追加されたものだそうです。
ジョゼフ・スウェインは1791年にウォルワスのバプテスト教会で尊い牧会を始めましたが、その働きの期間は、わずか5年という短いものでした。それは1796年、35歳という若さで召されたからです。
彼は生まれながらの天才的詩才の持ち主であったため、いくつかの宗教詩や讃美歌を書き残しました。讃美歌527番はその代表的なものでイギリスばかりでなくアメリカでも広く愛唱されています。特に、福音聖歌、リバイバル聖歌として用いられました。そうして、日本にも渡って来て多くのクリスチャンにこの美しい讃美歌が愛唱されています。讃美歌527番の曲MEDITATIONですが、原曲は明らかではありません。作曲者フリーマン・ルイス(1780~1859)は、アメリカ人で、1810年に彼はジョゼフ・スウェインの歌詞のために作曲したものであるということ以外には何もわかっていません。それから60年後の1869年にアメリカ人のヒューバト・P・メイン(1780~1925)が、ルイスの原曲を手にして、それをMEDITATIONという曲に編曲したのであります。
彼は福音唱歌の作詞者シルベスター・メインを父として、コネチカット州のリッチフィールドで1839年8月17日に生まれました。彼は父の影響を受けて、15歳の時から福音唱歌の作曲をはじめました。彼の作品した讃美歌や日曜学校用の歌は、1000曲を越えたほどでした。また、メソジスト教会の讃美歌集をはじめ、数多くのゴスペルソング集を出版しました。
メインは、若い時の数年間、出版関係の仕事は始めましたが、1867~1868年までは有名なウィエィアム・B・ブラットベリ(讃美歌310番も参照ください)のもとで働きました。そのような関係で音楽についての大切なポイントを学ぶことが出来ました。
その後のメインは父の関係していた楽譜出版会社を継ぎながら、数多くの作曲や讃美歌集を出版しました。
1954年版の讃美歌では、メインの曲が4曲収められていて、527番の編曲の他に一番よく歌われているのが336番の“主イエスよ、十字架を”の編曲ELLESDIEでありましょう。メインは1925年10月7日にニュージャージー州で亡くなりました。
<527>
1 わがよろこび わがのぞみ
わがいのちの主よ、
ひるたたえ よるうたいて
なお足らぬをおもう。
1節では、神様への讃美の尊さを心から歌っているように思います。“ひるたたえ、よるうたいて、なお足らぬをおもう”という言葉は、そのことを意味しているでしょう。
詩篇119編164節には「私は日に七度、あなた(主)をほめたたえます」とあります。また、詩篇150編のわずか6節しかないその中に「神をほめたたえよ」という言葉が12回も記されています。
私たちも、本当に“主を、私たちの喜び”とするならば、いつも讃美の歌を口にしなければならないと思います。しかし主は、私たちの喜びであるとともに、消えない望みと永遠のいのちを与え給う主でもあられます。
原作でスウェインが歌っていることは“主は私たちの悩みを聞き入れ給う主であり、昼には私たちの慰めであり、夜には私たちの歌であり、私たちの望み、私たち救い、私たちのすべてであられる”と素晴らしい信仰を持って讃美を歌い上げています。まことに主は、私たちのすべてでなければなりません。また、私たちのすべては、主イエス・キリストのものでなければなりません。
2 したいまつるかいぬしよ
いずこの牧場(まきば)に
その群れを主はみちびき、
やしないたまえる。
2節では、私たちの牧者、飼い主であられるキリストについて美しい言葉で歌っています。主イエス・キリストはご自分のことについて、「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」(ヨハネ10:11)と言われました。また詩篇23編1節以下で「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。・・・」とダビデは歌っています。
良い羊飼いのキリストは、その群れをいつも養い、守り、導いてくださいます。しかし、愚かな羊である私たちは、さまようこと多く、羊飼いの愛のみ声には、一向に答えない者のようであります。
原作では“私はなぜこの死の谷で涙を流し、なぜひとりぼっちでこの荒野でパンを捜し求めようとするのでしょうか”と歌っています。私たちは、主イエス・キリストが“失われた一匹の例え話”でお教えになったように、自分の力や知識では、とうてい群れに戻れない弱い愚かな者であります。ですから、良い牧者であられるキリストが、私たちを救ってくださらない限り、決して、私たちには希望もなく、荒野で飢え死にしなければならない者なのであります。
あなたは、いま死の谷をさまよっていると思われますか。霊的には荒野で飢え死にしなければならない状態と思われますか。もし、本当にその事実を神様のみ前に認めるなら、一日も早く安全な囲いの中に身を置いて良き牧者と豊かな憩いを得てください。
3 シオンの娘、 かたれかし
わがいのちの主に
野辺にてか、幕屋にてか
会いまつらざりし。
3節ですが、“シオンの娘たち”ですが、聖書辞典などによりますと、この言い方は、「新しいエルサレム」、つまり、天国の住民全体を意味すると言われています。聖書の箇所を見ましょう。ゼカリヤ書2章10節、11節には「シオンの娘よ。喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたがたのただ中に住む。―主の御告げ。― その日、多くの国々が主につき、彼らはわたしの民となり」と記されています。また「しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです」とへブル人への手紙12章22節にあります。
いずれの場合でも、その中心になっているのは、“私たちはいつも神様とともにいる生活を送らなければならない”ということであります。遠い昔では、野辺の生活、また天幕の生活でした。今の私たちの生活は、主に都会の生活、団地の生活、そして自己中心の生活であります。このような生活であるからこそ、私たちはいつも祈りをもって、主に交わりを持ち、いつも主とともに歩まなければならない者であります。
4 主のみかおのやさしさに
みつかいよろこび
みことばのうるわしさに
あめつちうたえり。
4節ですが、英文の原作と日本語訳とは、ほとんど同じで、背景にあるのは、3節で引用したヘブル人への手紙12章22節にある「生ける神の都、天にあるエルサレム」また、み顔のやさしさを見て喜ぶ、その「無数の御使いたち」でありましょう。また、主のみ言葉のうるわしさにうたれて「多くの国々が主につき、彼らは主の民となる」とのゼカリヤの預言が成就されるところであります。ここでの大切な点は、あなたがたではなく、私自身は主の民の一人として認められているかどうか、という根本的な問題で、神様に立ちかえる者こそ幸いであります。
5 ならびもなき愛の主の
みこえぞうれしき。
わがのぞみ、わがいのちは
とわに主にあれや。
5節ですが、まず気がつくことは、“愛の主のみ声”というのは、他とは比較にならない、類をみないみ声であるということであります。この素晴らしい言葉は、原作には見られません。その意味で日本語の歌詞の方が数段素晴らしいと思います。
そのみ声、私たちの牧舎のみ声は、ただうるわしいだけではなく、ならびのないみ声でありますから、このみ声に聞き従って行く私たちでなければならないのであります。“わがのぞみ、わがいのちは、とわに主にあれや”と歌えるのは、ただ、そのみ声に耳を傾け従っていく人だけに限られています。
「良い牧者は自分の羊のその名を呼んで連れ出します。彼は自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます」とヨハネの福音書10章3節、4節に記されています。
また「わたしは良い牧者です。私は私のものを知っています。また、私のものは、私を知っています」とヨハネの福音書10章14節にもあります。これらのことばからでもおわかりのように、私たちは一人残らず、私たちの牧者であられるキリストのみ声を知って、主イエス・キリストについて行く者になりましょう。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」