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「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」・・・65・・・
問22 「救い」ということが「罪と死からの解放」を意味するものであることは分かりましたが死からの解放としての「復活」については、どうもよく理解できません。
答・・8・・
わたくしが東京のある教会に出席していたある日のこと、一人の信徒の方が御自分の信仰についての話をしに来られた際、その話の中で「先日、数寄屋橋のところで、イエス様にお会いしました」と言われました。今なら「どんなお顔でしたか」とか「服装はどんなでしたか」など、もう少し話をふくらませるような質問をするところですが、その時は「そんな、イエス様が数寄屋橋あたりに来られるはずなんてあるものか」と思って、心の中で一笑に付していました。
ところが、その後、わたしが牧師として赴任していた教会の信徒で、高齢で入院していた一女性が、危篤であることを聞いて見舞ったところ、「先生、私はさっきイエス様にお会いしました」と言われたものですから、「どんな風にですか」と聞きましたら、「ほら、あそこの白い壁のところです。あそこに現れて、にっこり笑ってくださったのですよ」という返事が返ってきました。
同席しておられた家族の方には見えなかったそうですが、この話を聞いて、わたくしは「そうでしたか、それは良かったですね」と祝意を表しました。先述の人に対するような批判的な思いはありませんでした。死期を前にしている人に対してのことであったかも知れません。そういうことがあって、それから一時間も経たないうちに、その方は召されました。
その後、そのほかにも、「イエス様にお会いした」とか、「イエス様が来てくださった」とか言う人の話を聞いたことがあります。その都度、わたくしは「それは良かったですね。わたしも一度お会いしたいものですね」みたいなことを言っています。
それは、どういう形においてであろうと、キリストに出会うという体験をすることは、祝福されてよいことだと思いますし、キリストが、復活され、今も生きておられるからに外ならないと思うからです。
こういうことを言いますと「それは幻想に過ぎないよ」と仰る方が少なからずおられることと思います。そう評されて「そうではない」と言えるような客観的根拠となるものは持ち合わせていません。しかし、「幻想に過ぎない」と言う批判も、そう言い切れる根拠があるか、と問われることと思います。つまるところ、「キリストの復活」ということは、信仰のことであって、その信仰によって生きた人がいたことや、そういう人の歩みは歴史的証言の対象とはなり得ても、信仰の内容そのものは史実としては客観化され得ないことであるからです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2018年5月のラジオ放送予定>
5月 6日 久保田証一 (日本キリスト改革派尾張旭教会牧師)
13日 久保田証一 (日本キリスト改革派尾張旭教会牧師)
20日 相馬 伸郎 (日本キリスト改革派名古屋岩の上教会牧師)
27日 相馬 伸郎 (日本キリスト改革派名古屋岩の上教会牧師)
(放送開始1952年10月)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」