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さんびか物語 ・・・50・・・
(広く愛唱されている50曲)
ポーリン・マカルピン著
(米国南長老教会婦人宣教師)
讃美529番
ああうれし わが身も
<神様のみ言葉>
「パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、また世界であれ、いのちであれ、死であれ、また現在のものであれは、未来のものであれ、すべてはあなたのものです。そして、あなたがたはキリストのものであり、キリストは神なのです」。
~コリント人への手紙第1、3章22~23節~
讃美歌529番“ああうれし、わが身も”の作詞者フランシス(クロスビー)・J・ヴァン・アルスタインは、アメリカでは大変よく知られている福音聖歌の作者であります。また、この讃美歌は、ゴスペルソングの代表的な、そして信仰深いものであります。
彼女は、1820年3月24日ニューヨーク州のサウスエンドという村の貧しい家庭に生まれました。生まれてまだ6週間目に、田舎の医者の誤った手当てによって、盲人となり一生涯、光を知らずに過ごしました。しかし彼女は、自分に起こったことについて、一度も不平を言わず、実に明るい愉快な人であり、他人の同情を拒んで自分の周囲をいつも明るくしていました。そうして、彼女の素晴らしい信仰から、泉のように主イエス・キリストによる救いと喜びを歌った聖歌が清い川のように彼女のペン先から流れて行きました。
彼女は12歳の時、ニューヨーク市にあった盲学校に入学し、そこを卒業後、その学校の教師となりまして、11年間、そこで熱心に目の不自由な子供たちを教えました。彼女は、38歳の時に盲人の音楽家アレキサンダー・ヴァン・アルスタインと結婚しました。それから彼女は教師を辞めて主婦としての生活を95歳の高齢まで続けました。
また彼女は、非常に若い時から詩を書くようになり、その最初のものは讃美歌ではなく普通の物でした。彼女の讃美歌の原作が初めて発表されたのは、彼女の8歳の時でした。アーサ・サリバン(讃美歌483をご参照ください)を思い起こさせます。彼女はその時以来、多くの詩を書きましたが、特に盲学校で教師をしていたときに、いろいろな詩の本を発表しています。
彼女が41歳の時に、初めて有名な音楽家ウイリアム・B・ブラドベリ(讃美歌310番をご参照ください)に紹介されました。その時にブラドベリが、彼女に是非讃美歌を作詞してほしいと依頼したことによって、初めて讃美歌の歌詞を手がけました。そうして、彼女の召される1915年までの長く尊い生涯を用いて、聖歌をおおよそ8000ほど作詞いたしました。
1954版の讃美歌には、彼女の物が8曲収められていますが、495番“イエスよ、この身を”、517番“われに来よと主は今”、524番“イエス君、イエス君”などは、よく歌われる福音唱歌であります。また伝道集会で必ずと言うほど歌われるのが493番“つみの渕におちいりて”であります。そのうえ彼女の曲CROSBYは、讃美歌492番の“かみのめぐみは いとたかし”、210番“きよきところを”に用いられて広く歌われています。
たとい彼女の作品が、文学的には一流のものと認められていなかったとしても、その分かりやすさ、非常に信仰の熱心に満ち溢れている素晴らしさは、何にも代えられません。また、聖書のみ言葉を、いつも讃美歌の背景に用いている彼女のゴスペルソングは、ただ熱心であったというばかりでなく、み言葉にいのちのあるように、いのちがありました。
彼女は幼い時に旧約聖書の最初の4巻と4福音書を暗記していましたから、み言葉に対する熱心さとみ言葉の上に立って書く詩は、その貯えられたみ言葉の財産から自由に引き出し、用いました。これこそ彼女の深い信仰の基となって、今日でも多くの人々に祝福を与えています。
讃美歌529番の曲BLESSD ASSURANCEですが、作曲者はやはり作詞者フランシス・J・ヴァン・アルスタインの友人であったアメリカ人の歌手フィービ・P・ナプ(1839~1908)で1873年のある日、彼女はこの曲を作って、フランシスに聞かせたところ、早速この曲のために歌詞を作ったそうです。彼女は、時々このように曲を聞くと即座に詩を作ったりしました。これも彼女の神様からの才能であり、喜びの一つでもありました。
深い信仰に立つ美しい讃美歌を日本語訳と原作を比較しながら味わいましょう。
<529>
1 ああうれし わが身も
主のものとなりけり。
うき世だにさながら、
あまつ世のここちす。
(おりかえし)
うたわでやあるべき
すくわれし身のさち
たたえでやあるべき
みすくいのかしこさ。
1節ですが、その前にこの讃美歌のタイトルと曲名が同じであります。これは、めったにないことで、これは、二人の主にある交わりをはっきりとあらわしていると私には思えてなりません。
BLESSD ASSURANCEを訳しますと、“幸なる保証(確信)”と言えましょう。作詞者はこの1節において、何をこの“幸なる保証”としているのでしょうか。それは「キリストは私のものであり、私はキリストのものである」という一体性の中にあることを歌っています。また、この幸いの確信は、神様が与え給う祝福と栄光の先取りであり、私は救いの世継ぎ、神様に買い取られた者、聖霊によって新たに生まれかわらせられた者、キリストの血にきよめられた者であると歌っています。
このように、原作では救いの大黒柱である主イエス・キリストの十字架の贖いの血と聖霊による回心を強調しています。実に強い信仰の告白と言えます。
“おりかえし”は、日本語訳の方が、強いものがあると私には思えます。原作では、一つのことを二度繰り返して歌っています。それは“わたしの思いとわたしの歌はただこれです。一日中わたしの救い主をほめたたえることである”と言うことであります。
日本語訳では、歌わざるを得ないのは、救われた身の喜び、たたえざるを得ないのは、み救いのかしこさである、という神様の救いと恵みを歌っています。実に素晴らしいことと思います。
私たちもここで、自分自身が本当に主にとらえられているかどうか、主イエス・キリストの血によって清められているかどうかを、よく考えてみる必要があると思います。眠った信仰、喜びのない信仰から悔い改めて、この尊い宝をしっかりとつかむことは大切であります。その上に立って、多くの人々に証しして、隣りの人々にも喜びを味わい知っていただくように努力しなければなりません。本当の信仰の喜びを知っている人でありますなら、それを宣べ伝えずにおれないのが、信仰の喜びであります。
2 のこりなくみむねに
まかせたるこころに
えもいえずたえなる
まぼろしを見るかな。
2節の中心の言葉は、まったき服従であります。日本語訳では、“のこりなくみむねに、まかせたるこころに”と歌われています。この服従の模範を主イエス・キリストに見ることができます。イエス様はゲッセマネの園で「父よ。みこころならばこの杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」(ルカ22:42)と祈られた如くであります。あるいはまた「わたしに向かって『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者がはいるのである」(マタイ7:21)と群衆にお教えになったとおりであります。
神様に対する全き服従は、クリスチャンにとって逃れられない義務ですが、最大の喜びの義務であります。服従によって、昔、ヤコブがベテルで天の使いが一つの梯子を上り下りしているのを見たように、私たちも幻を見るでしょうと作者は歌っています。
もちろん、これは実際的ではなく、神様が私たちの近くにいたもうことを体験することを意味すると思います。私たちは、このような経験によって、はじめて服従に伴う祝福を味わい、キリストのものであることの確かさを持つことができるものと思います。
3 むねのなみおさまり、
こころいとしずけし。
われもなく、世もなく
ただ主のみいませり。
3節の中心的なテーマは、主にある全き心の安息であります。日本語では“むねのなみおさまり、こころいとしずけし”と美しく歌っています。すべてをキリストにお任せしたその人の心は、不安や悩みの波は治まり静かになるのであります。原作にありますが、主にある―その人―は祝福されて、キリストの愛にはぐくまれて日々を過ごすのであります。また天を仰ぎみながら、絶えず目を覚ましてキリストの再び来られることを待ち望むのがキリストに一切を委ねた者の心であります。
今のせわしない世の中で、キリストのみが与えることができる心の安息は、本当に大切であり、祝福であります。
「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるものとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません」(ヨハネ14:27)。
主イエス・キリストのこのみ言葉は、今の私たちにとっても有効であります。あなたもキリストが与えようとしていらっしゃる救いと平安を喜んでいただき、キリストとともに雄々しくあなたの日々の道を歩まれますようにお勧めいたします。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」