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小閑記
ご自身のみ子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして。み子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。
~ローマ8:32~
私たち信仰者が、人生のこまごまとしたことを恐れたり、案じたりするのを見るのは、不思議なことでもあり、また悲しむべきことでありますが、それが信仰の姿であります。
しかし、まず私たちは、神様は世を造られる前に、恵みによって私たちのことを思いはかられたことを信じており、主なる神様は、そのみ子のお命を私たちのために与えられたことを信じております。
私たちはまた、主のみ名による、罪の赦しを得ていること、主は私たちを、「神の子」とせられたことを信じております。しかし、神様が私たちのためにしてくださったすべての大いなることを、いや、その大いなることの中でも最大切なことを信じている事実にもかかわらず、私たちは人生の日ごとの重荷を運び続けているのです。
私たちは神様は救い主であると信じていますが、私たちの父としての神様を信頼しません。私たちは神様が失われた罪人のために、天国を開いてくださると信じていますが、私たちの日ごとの生活において、神様が助けてくださることを疑つてしまいます。自分と自分の家族はどうなることかと父親は憂い、考えます。何もしてやれなくなったら、子供たちの世話は誰がするのだろうかと母親は0嘆きます。
私たちが見たことのない日、また決して見ないであろう日を、私たちは不安と言い、重い荷物と肩に背負っていると思います。私たちのために面倒を見ると神様が約束されたことについて、私たちの方で疑うのです。主は私たちに、なにも心配することはない、すべての心労を主に委ねなさいと言っておられます。
この神様の愛と約束と招きの言葉を、生涯持ち続ける日々でありたいものです。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」