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第84課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・39・・・
E 弱い兄弟たちに対するキリスト者の義務 ・・14:1~13・・
・・・1・・・
「食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受け入れて下さっていたのであるから」(3節)。
「ここでは、この問題について、キリスト者相互においてはなさねばならない寛容と忍耐とが教えられている。強い者は弱い人々を迷信的であるとか、程度が低いとか言って、軽蔑すべきではなく、また、弱い者も自らの躊躇や周到さを見過ごす強い人々を裁いたり、咎めたりしてはならない」(ホッジ)。
教会には、二種の人々がいます。一つは、信仰において強く正しい人々であり、他は信仰において弱く、誤っている人々です。しかし、それらの両方ともが存在していて、パウロは相互の寛容を命じているのです。
「神は彼を受け入れて下ったのであるから」。すなわち、神は弱い兄弟たちをも、その弱い信仰にもかかわらず受け入れて下さったのである。寛容の勧めは強い人々にも弱い人々にも適用されているのです。「恐らくユダヤ人改宗者たちは異邦人キリスト者たちを軽蔑し、異邦人キリスト者たちはユダヤ人キリスト者たちを裁こうとしていたと考えられる。パウロはそれらの双方に対して警告をしているのである。しかし、第1節や文脈から考えると、異邦人たちが主として対象にされていると考えられる」(ホッジ)。
現代の教会において、肉を食べるという特定の問題は重要ではありません。しかし、ここでパウロが述べている原則はすべての時代に有効でしょう。それ自体は良くも悪くもない問題―すなわち、聖書によって要求も禁止もされていない事柄―についての種々の見解は、キリスト信者の交わりを破壊するものであってはなりません。
現代に実例を挙げることは容易です。礼拝時刻が何時であるべきか、家庭礼拝における聖書朗読の計画などはその例です。主の晩餐の執行の回数などもそうです。このような例は幾つも挙げられます。このような事柄は正しいか正しくないかの明確な決定点を含んではいないから、キリスト教会の統一性や交わりを破壊する要因とならせてはなりません。
強い者は弱い者を軽蔑してはならないし、弱い者は強い者を裁いてはならないのです。
J.G.ヴォス著
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」