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小閑記
あなたがたの神は言われる。「慰めよ、わが民を慰めよ、ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、その服役の期は終わり、その咎はすでにゆるされ、もろもろの罪のために二倍の刑罰を主の手から受けた」。
~イザヤ40:1~2~
神の民の生活環境は、必ずしも明るいものではありません。これを否定する人は、この世も自分をも知ってはいないのです。キリスト者の歩かなければならない道は「細く狭い」と神は言われました。危険への恐れ、取り残される恐れ、他の人々の救いのための責任、あるべき、またありうる恥辱感、その他の多くのことが、キリスト者の信仰をぐらつかせ、恐れさせます。
そのような時にキリスト者も信仰の力を忘れたかのように、嘆きます。「主はわたしを捨てられた。主はわたしを忘れた」と。
しかし、神はそのような時でも、わたしたちを知っておられ、み言葉の中に主の愛に満ちた慰めをお置きになってくださいました。
「女がその乳飲み子を忘れ、その腹の子をあわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。みよ、わたしはたなごころにあなたを彫り刻んだ。あなたの石がきは常にわが前にある」。
わたしたちは服役の期は終わり、そのとがはすでにゆるされ、わたしたちはもろもろの罪のために、二倍の刑罰を主の手から受けたのです。それは、わたしたちによって十分な慰めではないでしょうか。
わが手の傷を忘れ、わが十字架、わが血、わが苦しみとわが痛き悲しみを忘れてはならない。否、シオンはわたしの最も大きいよろこびである。
この神の恵みと祝福こそ、キリスト者の日々、人生の礎です。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」