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第84課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・37・・・
E 弱い兄弟たちに対するキリスト者の義務 ・・14:1~13・・
・・・2・・・
「食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受け入れて下さっていたのであるから」(3節)。
「他人の僕を裁くあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである」(4節a).
神は、その信仰において 正しく強いキリスト者が、その信仰において未熟であり、したがって臆病であるキリスト信者を裁くことを命じてはおられないのです。要するに、弱いキリスト者もキリスト者であり、したがって、キリストのものなのです。キリストこそ裁きの座に立つべき唯一の存在なのです。
パウロの時代もそうであったように、現代にあっても、教会の中には、自称「裁き主」が多くいるのです。そうして彼らは兄弟姉妹のキリスト者たちの意見や躊躇や迷いや行動について、裁きを下そうとするのです。そうして現代においては、弱い人々を強く裁くことだけでなく、その反対の状況をも見るのです。ですから、弱い者が強い者を裁くのです。キリスト教の筋道さえもよく知らない者が、傲慢にも長い信仰生活をしてきた人々を、その謙虚さに乗じて裁くのです。ある特定の事柄について躊躇している人々が、多くの強い人々によって寛容をもって、その未熟さを受け入れられていることによって満足しないばかりか、彼らの未熟な主張に全教会が従うことを要求するのです。そして、その線に従って不断に宣伝を続けて、教会の平和をかき乱そうとするのです。強い者であれ弱い者であれ、彼らすべてがパウロの問いかけに注目しなければなりません。
「他人の僕をさばくあなたが一体、何者であるか」(4節)。
「彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである」(4節b)。
神は弱いキリスト者をその弱い信仰と誤れる信仰にもかかわらず、救うことがおできになるのである。ここには、キリスト者兄弟に対する相互の寛容をもつべき理由が述べられています。ある人がたとい信仰においてどんなに弱いとしても、彼がキリスト信者であれば、私たちはその人を非キリスト者や部外者のような取扱ってはならないのです。
「兄弟たちは相互に責任を持つのではなく、また、教会に対して責任があるのでもないのです。神こそ良心の主なのである。神に対して応えなくてはならないのだ。神の前に彼らは立つのか倒れるのかなのである」(ホッジ)。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」