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第85課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・38・・・
E 弱い兄弟たちに対するキリスト者の義務 ・・14:1~13・・
・・・3・・・
「また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。各自はそれぞれの心の中で、確信を持っておるべきである」(5節)。
ここで言われていることは、明らかに旧約の儀式律法にある種々の祭りの日に関してです。律法が清い肉と清くない肉とを区別したように、日についても区別していました。明らかに、あるユダヤ人キリスト者たちは、これらの日を従来の仕方で守らなければならないと考えていました。この信仰は誤っていました。それは彼らの弱い点でした。しかし、それは重大な事柄ではなかったので、それによって教会の統一性を損なわれることは許されないことです。
ここの個所は、ある人たちによって、安息日を守ることはキリスト者の義務ではなく、個人の好みにゆだねるべき選択的な問題であるとする議論の根拠として用いられてきました。しかし、これはここの個所のひどい曲解にほかなりません。文脈とガラテヤ書4:10やコロサイ書2:16のような並行聖句から見て明らかなように、ここでパウロはユダヤ教の祭りについて述べているのであって、その言葉をキリスト教の安息日に適用することは重大な誤りです。
ここの聖句が言おうとしているのは、「ある人はユダヤ教の祭りを守り、他の人は守らない」ということです。私たちの知るべきことは、使徒時代の教会において、週の最初の日、すなわち、主の日を守るべきことにおいて一致していた人々にさえもそのような事実があったということです(ホッジ)。
「各自はそれぞれの心の中で、確信を持っておるべきである」(5節b)。
ここでパウロは一人の人の良心が他人の行動を支配することはできないという原則を述べています。各人は自己の良心に従って行動すべきです。そして自分が間違っていると確信することを行うことは避けなければなりません。現代の教会においても、自分たちの良心に基づく確信を他人の行動の基準にすることに、神は定められておられると考えている人々がいるのです。このような人たちは他人に対して「君はこうしなくてはならない。何故ならば、私はそうすることが君の義務であると信じるからだ」とか、「君はそのようなことをするのを直ちに止めなければならない。何故ならば、私はそれが間違いであると思うからだ」などというような言葉を、あからさまに言わなくても、態度で示すのです。
これと同じような精神はパウロの時代のローマの教会に存在していたことは明らかであり、このような傾向に反対するためにパウロは「各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである」と記したのです。もちろん、それは神のみ言葉によって正されるべきであって、他のキリスト信者の良心によって正されるべきものではありません。私たちは自分の道徳的問題を、だれか他人の確信を自分のガイドにすることによって解決することではありません。
私たちは自分自身の良心によって、神が私たちに要求しておられることは何かを確信させられなくてはならないのです。ある教会の人々が持っているこの考え、すなわち、神はとにかく他の兄弟たちの良心を支えるために、自分たちを指名されたのだとする考え方は大変な間違いであり、自惚れなのです。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」