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「あなたに聖書を」
「キリスト教百話」
問22 「救い」ということが「罪と死からの解放」を意味するものであることは分かりましたが死からの解放としての「復活」については、どうもよく理解できません。
答・・11・・
この話に示されていることは、イエスが死んだ、という事実と、イエスが生きているという事実と、この二つは矛盾することでありながら、矛盾しないで成り立っているということであります。そして、そういう矛盾を超えて、その双方を成り立たせることができるものとして神の全能という力があるということが、この記事を書いた人が伝えたいと願っていることのポイントではないかと思うのです。
死んでいると同時に生きているという矛盾そのものが復活のイエスに他ならないと知ることが、復活の真理が分かったといえることではないかと思うのです。「絶対矛盾の自己同一」という言葉があります。絶対に矛盾することが同一になるはずはないというのが、時間と空間の中で事をとらえようとする者に起こる反応ですが、それが可能になるのは、そういう発想を超えた次元においてのことであるというのであれば、わたくしは、イエスの復活という事態において示されることは、この矛盾を克服する秘密がここにある、ということが出来ると思います。
パウロは「キリストに結ばれている人はだれでも、新しく創造された者なのです」と言っています(Ⅱコリント5:17)。そして、そのように新しく創造された者としての自分のことを「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらぼされない」と言っています(同4:8以下)。これは彼が実際に四方から苦しめられて行き詰まったことや、途方に暮れたことがあったことを語っています。
しかし、そうでありながらそうでない、というのは自己矛盾ですが、その矛盾が、矛盾という次元を超えて、矛盾でない受け止め方がなされている秘訣として、パウロは「わたしたちはいつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために、わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています。死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」という、イエスの復活に示されている事実を、自分の事実としていることによるのであると述べています(同4:7以下)。
ある状況の中にありながら、その状況に支配されないでおれるということは、その状況に支配されないでおれる自由を持った人間でなくてはなりませんが、そういう状況を超えて立つことができる自由なものであり得るのは、生来の自分によってではなく、これを超えたものとして対応できる新しく造られた者において初めて出来ることであって、その新しく造られるということが、イエスの復活ということにおいてわたしたちに与えられている、いわば秘儀に属する事柄、即ち、信じる者に実現する神の働きであるということができます。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2018年8月のラジオ放送予定>
8月 5日 田中文宏 (日本基督教団名古屋桜山教会牧師)
12日 田中文宏 (日本基督教団名古屋桜山教会牧師)
19日 山田詩郎 (日本基督教団名古屋北教会牧師)
26日 山田詩郎 (日本基督教団名古屋北教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
毎週日曜日朝6時30分~45分放送
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」