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水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)
8 バラの伝道・・1・・
この年1875年(明治8)の夏、バラ先生はブラウン宣教師と箱根に避暑して、箱根峠を越えて山中部落の本陣笹屋で集会を開いた。この箱根伝道の結果、泉屋津田大作一家をはじめ、数名のものが洗礼を受け、泉屋津田一家は家の教会として集会を守っていった(御殿場教会80年の歩み)。
1876年(明治9)1月30日、バラ先生より稲垣 信が洗礼を領した。稲垣は、横浜海岸教会の牧師(初代)として、バラ先生の跡をついだ人で15年間、海岸教会に奉仕したが、彼は旧上田藩士で父は家老職であった。彼は1873年(明治6)夏、東京築地居留地を散歩した時「耶蘇教聖書売捌所(ばいはつしょ)という金文字の大看板を掲げた店を見て、切支丹禁止のわが国に、こうした店のあるのは、洋人たちがわが国を軽蔑するためであると憤慨したが、邪教の実態をつかんでやろうと、築地六番館の会堂に出入りして説教を聞き、また聖書を調べ、信徒たちの親愛の交際、祈祷の熱心、懇切なのに動かされ、後に上田に帰って日曜日には聖書を読み、礼拝を守った。
また2、3人の友人と相談して1874年(明治7)11月19日、上田禁酒会を造り、「邪教を棄て、真神を拝し、飲酒を禁じ、聖日を守り、仁愛慈善の行為を互いに励み、社会の弊風を一洗せん」との規約をもとに活動した。そして28歳の時横浜に出て信仰を告白し受洗した。
1876年(明治9)、ミロル宣教師と真木重遠氏が上田に来て、稲垣の家で連日説教をし、8月13日、16名の男女が受洗した。続いて同年10月、バラ先生はグリーン宣教師、ギューリック宣教師と東北地方伝道の途中に上田に来られて、10月8日、19名の男女に洗礼を授け、同日、会員36名で信州上田日本基督公会を建設した。
翌く1877年(明治10)10月、横浜で一致教会設立の会議があって、稲垣は教会代表として上田を出立して間もなく、稲垣の家は隣家からの出火で類焼してしまった。バラ先生は稲垣を慰めながら「あなたのお家が焼けたのは、神様があなたを他の所に移そうとのみ旨かも知れません」と言われたが、その後、海岸教会から招かれ、12月に横浜に出て、翌く1878年(明治11)春、バラ先生が海岸教会の仮牧師を辞任し帰米されたので、同年4月20日、按手礼を受けて同教会の牧師に就任した。
附 上田教会 明治9年10月8日 バラ先生による受洗者名
小林滝太郎 宮下 謹吾 町田 八郎 田中 救時 笈川綏五郎
山寺半右衛門 犬飼 新 小島 さだ 小島 くに 小島 なを
掛川よすが 世良田さく 木村 まき 木村 こう 早川 やす 小島 たけ 隠岐 つね 尾山 かじ(稲垣信祖母)(以上19名 筆者調)
その後、上田教会へは、1873年(明治6)3月、ブラウン宣教師より受洗した横浜海岸教会員の真木重遠(新潟県 士族)が来て伝道者となった。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」