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十戒と主の祈り・・2・・
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=わたしは主=
まえがき②・キリストへ導く
出エジプト記20:2、Ⅰペトロ2:13~20
この十戒のまえがきから分かるように、神は、ご自分を「あなたの神」、「あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神」と自己紹介しておられます。「あなた」という二人称単数が用いられていて、「あなたがた」という複数ではありません。このことは、まえがきだけでなく、十戒の本文のすべてにおいても同じです。
前回学びましたように、神はイスラエルの民をご自分との契約の中に入れてくださいました。しかし、この神によって自由にされた民が自由であり続けるためには、契約に伴う責任を自覚しなければなりません。そのために、彼ら一人一人がそうでなければなりません。全体が契約を守るということのほうが一見、適しているように見えます。しかし、それは幻想です。一人一人が守ることができて始めて、全体が守ることになるからです。最後の審判のときにどうなるか、パウロは次のように、述べています。
「わたしたちは皆、キリストの裁きの座のまえに立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです」(Ⅱコリント5:10)。
神は信仰者の個人の責任を問われますから、信仰の良心のうえに社会的に孤立するようなことがあっても、自分の個人的確信を貫くところに、神から与えられている自由があります。
十戒は「~してはならない」という否定的な戒めが肯定的な戒めより多く、前者は8つあるのに対して、後者は2つで、第4戒と第5戒の2つがそれです。ウ大教理問答の99問の4の答えにあるように、肯定の戒めでも、否定の禁止は含まれ、否定の8つの戒めも、その反対の積極的なことが勧められています。禁止の戒めが多いことは、自由を禁じているように思われて、まえがきが明らかにしている自由の律法という意味を維持できるのかという疑問が起こるかもしれません。
しかし、ドウマ教授は、禁止の命令が、その命令に違反する私たちの性質を映し出す鏡のようなものであって、私たちが殺人犯であるから、殺してはならないのであり、姦淫する者であるから、姦淫してはならないのである、といいます。律法は仮面を剥ぐ機能も持っていることを知るとき、私たちは律法によって偽りや欺瞞から解放されます。
それと共に、律法を完全に実行されたキリストとの生きた交わりだけが、義を与えてくださる保証になります! キリストにあって、律法は私たちの自由の憲章です。従って、律法はわたしたちの罪を示し、キリストへ導き、信仰生活の実践を教える感謝の指針という、二つの重要な面があります。
まえがき③・律法の意味
出エジプト20:2、マタイ5:22~26
十戒のまえがきで、このことが直接言われているものではありませんが、十戒を理解するために基本的に重要な規則を、なお加えて理解しておくことにしましょう。
それは、聖書解釈の重要な原則の一つで、聖書全体の光に照らして、解釈するということです。特に、主イエスが山上の説教において、十戒に言及して、その意味を教えてくださいましたから、特に彼の足下に座って、その教えに耳を傾ける必要があります。そうすることで、十戒の内容をより良く知ることができます。
例えば「殺すな」という第6戒が禁じている命令について、主は、ただ単に人の肉体的な命を奪うことだけではないことを教えられました。それは、心の中に生じる憎しみも違反であり、それを言葉によって口に出すことも、この律法の明らかな違反であることも指摘なさいました。つまり、十戒の言葉に深さと広さがあるので、その点を理解しなければならないということです。
従って、十戒を理解するために、第一に、この律法が霊的な意味をもっていることを知っている必要があります。この律法はキリストによってはじめて完全に実行され、キリスト者だけがこのキリストにあって初めて守ったと見なされるため、霊的です。また、律法は表面的に守っているように見えても、神は心を見られるので(マタイ22:37~40)、霊的です。
第二に、してはならないという否定の命令は、反対のことをする肯定の命令でもあるということです。例えば、第二戒で、偶像礼拝の禁止が命じられています。偶像を作ったり、それを販売したり、それを拝むということはないとしても、神よりも大切なものを持つことは偶像を持つことになります。自分の名誉や富、人々からの評判、つまり、自分自身、あるいは自分の家族、そうしたものは、主なる神よりも、「崇められるもの」となってしまう危険はないでしょうか。
あるいは、日曜出勤は、週日の働きが不十分なためなのか。そうではないにしても、その仕事を週日にするように努力したうえでのことか。こうしたことによって、ウエストミンスター信仰告白の21章8項の「必要な義務」と言えるかどうかが判断されます。
さらに第4戒に、十戒の要約は、神への愛と隣人への愛です。この二つが対立する時、例えば、夫が律法に反することを求めた時、その求めには神からの権威がないと考えなければなりません。神への愛が隣人への愛より重いということです。
最後に、十戒の出発点も、愛です。形式的に守っていても、守ったことにはなりません。愛が律法を成し遂げさせるかどうかが問題になります。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」