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世田谷通信(179)
猫草
スポーツ観戦などほぼしないのだが、10数年ぶりに野球の試合を観に行った。大きな音も沢山の人も苦手なので、大丈夫かなあパニックにならないかなあと不安だった。駅から球場に向かってどんどん人が増えていく時にはひるんで帰りたくなったけれど、逆走もできず流れのまま緩やかな坂を歩いてたどりついた。
座ってしまえば意外と平気で、音は反響せず空へと消えていく。暮れ方の空の色が刻々と変化するのを綺麗だとか思っているうちに試合が始まる。普段はテレビの野球中継すらあまり見ないので、試合を注視するなんて長男の少年野球以来だ。
そして、当たり前のことをいまさら思う。スポーツって人間がやっていることなんだね。何万人もの観客に注目されながら。テレビ中継だとピッチャーとバッターの攻防の映像が流れるけど、野手もネクストバッターも応援もみんな含めての試合。
緊張感のある好ゲーム。強打者にはピッチャーのギアも確実に上がる。大事な局面では球場の雰囲気が変わる。地鳴りに似た、念に近い波動で席が揺れるように感じる。熱気とはこういうものか。その渦の中心であるマウンドやバッターボックスならその「思い」をどんな風に感じるのだろう。
ユニフォームやグッズをまとって一心に応援している人たちは何を選手やチームに託しているのだろう。高校野球のヒーローがプロになり、結果を残せる者が何人いるのか。華やかで調子の良いときばかりではない。歳を重ねて衰え、長い不調やケガに泣き、移籍や戦力外通告という厳しい現実も突きつけられる。選手の名を連呼し、打てば飛び上がって喜び、チームの戦績に一喜一憂するのは、そうか、浮き沈みのある自分の人生を重ねて共に歩んでいるからなんだね。と、再度当たり前のことに気がつく。
結論としては疲れたけど面白かった。試合後の混雑を避け、早々に帰ったのも正解。たまには良いものだ。こんどは応援グッズも買ってみようか。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」