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第85課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・37・・・
E 弱い兄弟たちに対するキリスト者の義務 ・・14:1~13・・
・・・4・・・
「日を重んじる者は、主のために重んじる。また食べる者も主のために食べる。神に感謝して食べるからである。食べない者も主のために食べない。そして、神に感謝する」(6節)。
ここの言葉は、ユダヤ教の祭りの日を守るものも守らない者も同様に正しいと言っているのではなく、また、肉を食べる者も野菜だけ食べる者も共に正しいと言っているのでもありません。それどころか反対に、一方は正しく他方は間違っており、一方は信仰が強く他方は弱いと言っているのです。この聖句でパウロは、両方のグループのキリスト信者が共に神への献身という動機から良心的に行動していると言っているに過ぎません。
一方は忠実に神に仕えており、他方は罪を犯しているケースではありません。双方共に献身の気持ちと神への感謝から、各々そのように行動すべきであると良心的に信じて行動しているのです。ユダヤ教の祝祭日を守ることをせず、宗教的な迷いでなく、すべての食物を食べる強いキリスト者は、そうすることによって神に感謝を捧げていること、良心に従って行動していることを明らかにしているのです。それを用いることが有罪であり禁じられている事柄を行いながら、神に感謝することはできません。同様に、それらの日を守り、肉を食べることを控えている人は、確かにその信仰において弱く、誤っているけれども、やはり自分は神のご意思に従って行動していると信じて、神に感謝を捧げているのです。
「すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない」(7)。
すなわち、真にキリスト信者ならば、自分自身を自分の主人と見做す者はなく、また、自分の好むところに従って行動する自由があると考える人はいない。彼は自分の生と死において、生きるにも死ぬるにも、その主なる目的は神の栄光を表わすことであることを認識しています。彼は自分自身は自分のものではなく、価をもって、すなわち、キリストの尊い血潮にとって買い取られたものであることを認識しており、従って、自分がキリストの僕であり、神のみ心に従ってその栄光を現わすように生きるべきことを知っています。
パウロはこの原則を受け入れる人はすべて、たとえ個々の事柄についての神のご意思を理解することについて、誤りや弱点を持っていても、真のキリストとして取り扱われるべきであると言っているのです。自分が全くキリストに属するものであることを認識し、自分の生と死について、自分が権威を持つ者ではないことを知っている人々は、キリスト者兄弟姉妹として受け入れられるべきであります。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」