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「今月のことば」
神がわたしたちをとおして勧めをなさるのだから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代わって願う、神の和解を受けなさい。
~Ⅱコリント5:20~
日本人の感覚で理解できないものの一つに「救われる」という宗教としての考え方であると、ある宗教家の著書の中にありました。それは罪に対する意識・認識の相違とありました。罪は犯罪という理解と対神という宗教的理解・神への背信・敵対であるとする聖書の主張にあります。大切なことです。「今月のことば」で、聖書はそれを示す。この真理をご一緒に考えてみましょう。
まず、キリストの救いを得るには、用意されているキリストによる救いが、私たちに伝授されなければなりません。私たちの外側に、用意された救いがあるということだけで十分ではありません。私たちはそれを自分のものとして受け入れなければなりません。キリストの御業、恵みは、私たちの救いのためには十分であるというのは確かであっても、私たちはキリストの死によって、神と和解した者とされる必要があります。しかし、和解を許されるためには、私たちは、まず、自分自身を和解されるようにしなければなりません。それは、私たちがキリストのみ元に行き、主によって用意された救いを受けなければならない、ということです。
もし、それをしたくないならば、決して救われません。ですから、神様はみ言葉を送り、証し人を送って、キリストに立ち返ることを強く言われるのです。
主イエスは私たちの負債(罪)と咎の証文を取り、主ご自身の血で、「支払い済」の印を、神の聖所で押してくださいました。同時に、私たち自身の心の中に「支払済」(罪赦された者)と主イエスに書いていただかなければなりません。そして信仰によって私たちの心を主に潔めていただかねばなりません。
失われた私たち罪人としてキリストに行かず、キリストの死には自分の罪の責任があると認めない者、また、信仰によって心をキリストに開かない者は、裁きを免れることはないことを事実として知らされています。
私たちは、自分自身が救われるか、失われるかを決断しなければなりません。この決断は「今」なのです。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」