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第86課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・38・・・
E 弱い兄弟たちに対するキリスト者の義務 ・・14:1~13・・
・・・5・・・
「わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものである」(14:8)。
この節は7節の思想をより明確な形で、繰り返して述べています。ここにある「主」という言葉は、明確に主イエス・キリストを指していることは文脈から分かります。
8節に述べられていつ献身(devotion)は、被造物が創造主に対して負うているのであり、その献身が主イエス・キリストに対して捧げられるべきであることが言われていることで、ここにキリストの神性が証明されていると言えます。すなわち、このことはキリストが神であることを証ししています。6~9節において、「神」と「主」とが相関的に用いられていることに注目すべきです。このことは、キリストの神性を力強く証明されていることになります。
「なぜなら、キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである」(14:9)。キリストはその死によって、その民を自分の者としてあがなわれた。その復活によって、キリストはすべてのものの王・主として現在の栄光を獲得されたのである。キリストの栄光と高挙と支配とは、キリストの服従と苦難と死の代償として提供されていたものであると聖書は教えています(ピリピ2:8~9)。
ここの9節では、パウロは、救い主・王としてのキリストの権威は現世に限られたものではなく、死後の生涯にまで及ぶものであると教えています。何故ならば、キリストは死んだ者と生きた者との主であるからです。
私たちはここで、ここに述べられているキリスト観が、近代自由主義的プロテスタント教界に広く浸透しているキリスト観と如何に相違しているかを認識しなくてはなりません。近代自由主義キリスト教の見解は、イエスが真の神であることを否定し、偉大な人物であると見るのです。彼は贖い主ではなく、単なる教師・模範者と見られているにすぎないのです。しかし、パウロが信じたキリストは死者と生者との主でした。イエスは真の神でした。
J.G.ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」