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バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・11・・
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)
8 バラの伝道・・3・・
次に御殿場と三島の中間、神山宿の伝道は、明治12年(1879)から土屋喜平氏(海岸教会名簿には喜八)宅を中心にされたようで、毎月1、2回、三島から伊藤伝道師が出張して伝道した。明治12年8月、バラ先生より、土屋喜平、太田直平、平沢 淑、沢田敬太郎、甲田正方、甲田つね、甲田はまの7名、明治13年3月12日、三島伊藤伝道師宅で太田鉄五郎、太田こう、太田いと、太田むら、土屋ふで、勝俣惣作、勝俣くら子、太田重吉がバラ先生より受洗、明治13年4月4日には小飼正作、高橋元平、土屋賢吾が同じく受洗した(横浜海岸教会名簿には小飼莊助、高橋元平、土屋謙吾とある)。
これによって、神山、三島地方に伝道が進展したことを示している。明治13年3月には神山講義所の会堂が建った。これは米国オランダ改革派教会ミッションよりの借入金120円で建設されたものであった。
御殿場教会史によると、その年の夏に県下に旱魃(かんばつ)があって、村民は雨乞いの祭りを氏神神社で行い、これに参加しない村民は、村八分にして、今後交際しないと申し合わせをした。ところが信徒の土屋喜平氏、太田直平氏は、この申し合わせに従わず、「祭りは無益な偶像であり、これに従うは大罪であると告白して、自分たちは天地の造主なる神に、朝夕祈っている。真の神をすてて、偶像の神を拝む罪を犯すことはしない」と語ったので、とうとう村から除け者にされ交際を絶たれてしまった。
しかし、これに耐えていたところ、しばらくして村民から交際を求めてくるようになり、また、後に村長になり、あるいは村会議員として村民から信頼され、教会の長老としてもよい奉仕を続けられたということである。明治17年5月には、会堂を丘の上に移築し、その二階にはバラ先生夫妻が避暑に来て住まわれた。
富士山麓の御殿場に福音が伝えられたのもバラ先生によってである。それは明治15年3月で、8月にはバラ先生、フルベッキ博士、奥村昌綱、三浦徹氏などを講師にしてキリスト教大演説会が持たれた。明治17年9月、村井いと子がバラ先生より受洗し御殿場の初穂となった。他に勝又米吉、八左京門の2名がバラ先生より受洗し、10余名の求道者が与えられた。
御殿場講義所は明治25年5月6日、御殿場劇場の出火で類焼してしまったが、その夏、避暑に来た宣教師たちによって、教会の信徒と戸別訪問して、伝道用パンフレットを配布したという。
バラ先生の伝道について、園部丑之助氏のおもしろい話があるので記してみよう。
「バラ先生の日本語は難解であるが、その熱烈さには皆が敬服した。博士の着用している服はツギハギだらけ、雨傘は、よくもこんなに使い古したものだと思うものを平気で使用して居られた。(…中略)。博士は福音を説くだけでなく、忠実に行わんとして、日本人と同じようにワラジばきで伝道旅行をされた。駿河、伊豆地方だけでなく信州各地をも受け持っていた。
私は最初ワラジばきで四里の道を毎週神山伝道に通ったが、どうしても自転車を使用したいと思ったので、その旨をバラ先生に申し出た。すると先生は「パウロは自転車で伝道しましたか?」と仰せられた。これには参ったが、私もすかざさず、「でも先生は汽車に乗って伝道されるでしょう」と言った。もう東海道線はその頃は通っていた。それには先生も閉口された。私は自分の謝金を割いて、自転車を購った。そのために毎週の神山伝道が、どれだけ楽になったかわからない。
そのあとバラ先生が説教に来られた。「ソノベよ、わたしは横浜から歩いて来たよ」
私はその言葉を聞いたとき愕然とした。パウロ先生の伝道の苦心にあやかるため、往年のように、20数里の道を歩いてきて来てくださったのである。バラ先生とは、そういう先生である」。
(御殿場教会八十八年の歩み23頁)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」