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第86課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・39・・・
E 弱い兄弟たちに対するキリスト者の義務 ・・14:1~13・・
・・・6・・・
「それなのに、あなたは、なぜ兄弟をさばくのか。あなたは、なぜ兄弟を軽んじるのか。わたしたちはみな、神のさばきの座の前に立つのです」(14:10)。この章において、パウロは「神」と「キリスト」とを交互交換的に用いているのは、彼がキリストを神として受け入れているからです。「もし人が私たちの兄弟であるならば、また、神が彼を受け入れておられるのであれば、そして、彼が神の御意思を行なおうという真摯な願望から行動しているのであれば、たとい私たちが誤っていると思うことを彼が正しいと考えているとしても、私たちは彼を非難して裁くべきではない。また彼が不必要な事柄で良心を悩ませているにしても、私たちは彼を軽蔑してはならないのである。ここの箇所の前半は迷いつつあるユダヤ人キリスト者について述べているのであり、後半は異邦人改宗者について語っているのであり、そして最後の部分は、両者に関して語られているのである。私たちはみなキリストの裁きの座の前に立たねばならないのであり、キリストは唯一の究極的な裁き主であるから、私たちはキリストの大権を僣取して、キリストが受け入れられた人を裁こうとしてはならないのである」(C・ホッジ)。
「すなわち、『主が言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしに対してかがみ、すべての舌は、神に賛美をささげるであろう』」(14:11)。
これはイザヤ書45:23の引用であるが、イザヤ書の言葉のそのままではなく、パウロは少しく形を変えている。しかし、意味は変わっていない。このことは聖霊がイザヤ書とローマ書の双方の真の著者であるという事実によって説明できるのである。著者は自分自身の著書から引用するとき、彼が適当であると考えるどのような変更をもする自由がある。このようなことは他人の著書から引用する場合にはできないことである。
ローマ書14章11節はイザヤ書45章23節と同様に、聖霊がその真の著者であるから、真に霊感を受けているのである。「わたしは生きている」はイザヤ書45:23にある「わたしは自分をさして誓った」という言葉の正しい意味を示している。
「パウロは明らかに、キリストの権威を認めることは神への服従と同じであると考えており、旧約のエホバの普遍的な支配について述べていることを、躊躇なく贖い主キリストの主権性を宣言しているのである。従って、パウロの評価においては、キリストは神そのものであったのである」(ホッジ)。
J.G.ヴォス著
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」