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バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・12・・
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)
8 バラの伝道・・4・・
明治初年、横浜でバラ先生と交際していた高木こう氏の談を「幕末明治耶蘇教史研究」に、小沢三郎氏が掲載されている。それによると、
「バラさんの事をお話しましょう。やはり明治5年ころでしょうか。海岸教会の隣りのところに洋館の二階建てがありました。これがバラさんの家です。バラ夫妻と二人の娘アンナさん(R・Eマカルピン夫人)、キャリーさん(F・ハーレル夫人)、それから女中一人くらい、コック一人くらいいたと思います。相当広い庭のある立派な家でした。
バラさんとは、その後アメリカへお帰りになる時まで交際していました。バラさんはとてもよい人で、私の太田村の家へよく訪ねて来てくれました。
「まだみんな生きているか」と言ってはいって来ます。
誰も気持ちよく「みんなこうやって生きていますよ」。「そりゃよろしい、よろしい」とバラ先生は喜ぶのです。…中略
バラさんは丈夫な、丈の高い、黒い頭髪の、ふとった人で、病気したことなど聞きません。保ケ谷、戸塚、箱根、三島等を歩いて伝道していました。日本食なども、ときにはいただいたようですが、私服を着たのを拝見したことはありません。…(中略)
バラさんの説教はわかりませんでした。よい日本語の先生につかなかったからでしょう。バラさんの祈祷はわかりませんでした。ただ熱心なことだけはわかりました。」
また大森の佐藤哲氏の談話と前記小沢三郎氏の著にバラ先生のことを記して、
「バラさんは、誰にでも差別をつけるようなことはありません。困っている人のことはずいぶんよく世話をしました。
三島方面の人でバラさんの世話になった人は相当あります。三島から若い娘をかなり連れて来て、フェリスに紹介したり、困っている人を給食生にしたりしていました。他人が困っている時は、おのれを忘れて飛び出す人です。いつか宗教大会の会長ドクター・ローレンスという人が来て、お話がありました。ある牧師が通弁したのですが、“あまり雄弁なので、とても私にはできません”と言って引き退ってしまいました。その時バラさんが飛び出して通弁したのです。ところが日本語がよくわかりませんから、身振りでやっと通弁しました。
その時バラさんの妹さんがいて、後になって「日本語のできる人がたくさんいるのに、なぜジェームスは飛び出したのでしょう」と言っていましたが、自分を忘れて困った人のために飛び出すバラさんの性質がよく現れています」(同著262頁)とある。
当時、日本に於ける米国ダッチリフォームド教会ミッションの伝道区域は、南北に分かれて北ミッションは、東京、横浜、長野県、岩手県、青森県に伝道し、南ミッションは長崎を中心に九州に伝道した。従って、北ミッションのバラ先生の伝道区域は盛岡市、岩手県一ノ関、野辺地、宮古、青森、新潟、横浜付近、千葉県、静岡県、富士山麓一帯の三島、神山、御殿場、箱根、伊豆地方の柏久保、湯河原に及び、長野県は上田を中心に松本、諏訪、坂下、飯田に達し、愛知県は名古屋、瀬戸、岡崎、豊橋、津具村にまで至っている。バラ先生の伝道行脚は日本の道路幹線である中山道沿線にまで進められた。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」