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「キリスト教百話」
問23 聖書には、キリストは復活された後、天に昇ったと記されていますが、これはどういうことですか。
答・・2・・
昇天後のキリストは、「使徒信条」というキリスト教の信仰を要約したものの中には、「全能の父なる神の右に座し給えり」と告白されています。全能者であるキリストの父である神の右に座しておられるというのです。「右」というのは権威が委譲されている場ですから、昇天後のキリストは、今も生きて、父なる神の権能を委ねられているということです。
そのことが何を意味することであるかと言えば、キリストによってわたしたちの願いはキリストの父である神に取り次いでいただけるということです。「主イエスの御名によって」祈るのはそのためです。キリストが「わたしによらなければ父を知ることはできない」と言われているのも以上の理由によってのことです。
次に、昇天後のキリストは、キリストを信じている者のために、ご自分に代わって、ご自分が地上に生きているのと全く同じ助け主の聖霊を送り続けておられます。また、キリストのことを知らないでいる人たちに、ご自分のことを知らさるために、聖霊を送って下さっているのであります。聖書において証されているキリストが、聖書を読む人に生きた語りかけをされるのは、この聖霊の働きにおいてであります。
聖霊のことは既に触れましたから、重複しますが、「聖霊によらなければ誰もイエスを主と呼ぶことはできない」のです。このことは、言い換えれば、聖霊においてイエス・キリストは今も生きて働いておられる、ということであります。見えず、触れることもできないイエス・キリストを、見え、聞こえ、触れることもできないイエス・キリストを見え、触れるよりも確かな生きた存在として信じることが出来るのは聖霊によってのことであります。
イエスが地上に生きておられた時、弟子たちをはじめとして多くの人はイエスを見、イエスに聞き、中にはイエスに触った人もいました。しかし、イエスの人格・神格の神髄に触れた人はいませんでした。神の側のことは、人間の視聴覚機能ではとらえることが出来ないからです。聖霊は、生きておられるイエス・キリストを、わたしたちの内に宿らせて下さるのです。言い換えれば聖霊によって、わたしたちの内側から聞こえてくるものは、本来的な自分の声だけでなく、むしろ雑音に惑わされている自分に代わって真に自分を生かすものとして発せられるキリストの声となるのです。救われるとはこのことです。自分が自分であることに変わりはありませんが、その自分がキリストと共に生きる自分になるのです。
このようにして、天にあって生き続けておられるキリストと、地上にあって終わるしかないわたしたちの内に、永遠の命に生き続けておられるキリストが、「わが主」となるのです。キリストの昇天あってのことです。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
<2018年12月のラジオ放送予定>
12月 2日 二宮 創 (日本キリスト改革派太田教会牧師)
9日 二宮 創 (日本キリスト改革派太田教会牧師)
16日 橋谷英徳 (日本キリスト改革派関教会牧師)
23日 橋谷英徳 (日本キリスト改革派関教会牧師)
30日 相馬伸朗 (日本キリスト改革派名古屋岩の上教会牧師)
(放送開始1952年10月)
CBCラジオ「キリストへの時間」(1053KHZ)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」