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バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・13・・
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)
8 バラの伝道・・5・・
1876年(明治9)、信州上田教会の建設を見てから、この中山道の信州伝道はバラ先生にとって、パウロの如く「しばしば旅行して河の難、盗賊の難、同族の難、異邦人の難、市中の難、荒野の難、海上の難、偽兄弟の難にあい、労し、苦しみ、しばしば眠らず、飢え乾き、しばしば断食し、凍え、裸なりき」(Ⅱコリント11章26~27)とあるように、文字通りワラジがけ伝道の不便な旅には嵐あり、野宿ありの苦労であった。
それは1880年(明治13)頃、中山道の和田峠に嶮を越えて下諏訪宿に辿り着いた先生は途中、木陰で祈っては休み、聖書を読んでは力を与えられて、宿場に入ると路傍伝道をして人々に語り掛け、旅宿を集会場にして求道者を得、やがて上諏訪の地に講義所が開かれるに至った。
日本キリスト改革派上諏訪湖畔教会の飯田幸之助牧師の談によると、
「当時、バラ宣教師は和田峠を駕籠で来たり、甲州路から馬で来たりした。家庭集会や路傍伝道に努め、おぼつかない日本語で、相手のだれかれなく語りかけ、病者にはぶどう酒を贈るなどして、生血と誤解された逸話が残っている。1909年(明治42)位までの間、伝道拠点として或る家に、また他の家庭集会に、路傍伝道にと、しばしば来たりて活動された。後、上諏訪町の発展とともに集会は上諏訪に移り、教会が設立された。・・・。聖餐式にあずかった時、バラ宣教師ゆかりの聖杯でぶどう酒を飲んだ記憶がある。それは普通、仏壇に使う飯を盛る陶器であった。バラ宣教師がぶどう酒を飲むに都合がよいというわけで仏具とも知らずに買い求めてきたとか」。
バラ先生が、今日のように聖杯用具のない時代に、格好の杯代用品のものを(仏具用に造られたとしても)探して用いられた、その苦心は想像するだに興味深いことである。筆者は、日本基督教団諏訪教会を訪ね、ありし日の聖杯並びに洗礼の水鉢を見せてもらった。20数個の杯は、全く聖餐に用いるに格好のものであった。洗礼水鉢は雑器のように保存されていたが、それは鍋島焼柿右衛門の立派な手描きの美しい菓子鉢だった。その逸品は現在では入手しがたい品として大切に保管されるよう、吉田勇牧師にお話して辞去した。
諏訪教会にはバラ先生による受洗者の記録はなかったが、同市内の日本基督教団上諏訪教会(ホーリネス系)の西川博彬(ひろよし)牧師を訪れて、同教会の役員で旧日本基督上諏訪教会員であった呉服商長瀬太郎氏の祖父唐沢源治郎氏が明治14年伊那谷(坂下)でバラ先生から受洗したとの話をお聞きした。すでに明治13年頃、諏訪から伊那谷の伊奈町(現伊那市)、飯田を経て神坂峠を越え、馬籠宿中津川宿を経由、瀬戸、名古屋のコースを取られ伝道旅行されたようである。
北信州の上田、長野、南信州の松本、諏訪、坂下(伊那)、飯田などの教会は成長して、明治末期には、それぞれ主任者が定住して伝道した。
◎ ダッチリフォームドミッション(東京中会内)伝道地(明治44年11月調))
四 谷 東京市四谷区大番42 稲垣 信 (教 師)
長 野 長野県県町76 木村 熊二 (教 師)
松 本 松本市仲町 杉本 栄太郎 (伝道師)
坂 下 長野県上伊那郡伊那町 小口久左エ門 (伝道師)
飯 田 長野県下伊那飯田町 内山 成生 (伝道師)
諏 訪 長野県諏訪町横町 西山 知義 (主任者)
三 島 静岡県三島町 三浦 徹 (教 師)
柏久保 静岡県田方郡北狩野字久保 栗原 喜久治 (伝道師)
御殿場 静岡県御殿場二枚橋 園部 丑之助 (教 師)
以上がダッチリフォームドミッションの伝道地として伝道の成果を見たところで、バラ先生やその他の宣教師による働きの果実であると見てよいであろう。また名古屋地方の伝道もバラ先生が横浜から東海道経由で来られ伝道された(名古屋の東海道線開通は明治22年)。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」