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小閑記
イエスは近づいてきて、手を彼らにおいて言われた、「起きなさい、恐れることはない」。彼らが目をあげると、イエスのほかには、誰も見えなかった。
~マタイ17:7~8~
NHKのテレビの12月31日の放送の定番は「ゆく年くる年」で、この開始は、最初はラジオ放送で1927年でした。当時は「除夜の鐘」であったと聞いております。この放送をラジオの前で家族揃って聞き、新年を迎えた記憶のある方もおられることでしょう。
誰もが、何かの区切りをつけて、新しいスタートとしたいと思うのは、その日々が順風満帆ではなく、重い何かを背負っての歩みであったからなのかもしれません。
冒頭の聖句は、私たちの人生をある出来事で示していると思うのです。
波が舟を越えて荒れ狂った時、またイエスがゲッセマネで捕らえられた時、弟子たちが恐れたのを理解することは難しいことはありません。けれども、そのすべての中に、キリスト教の深い真理があるのです。
もしキリスト者が長い間、闇の中をさ迷い、苦しい戦いの中に居続けるなら、不安と絶望、あるいは、信仰を捨ててしまいたくなる思いになるのです。「私はキリスト者であるのだろうか、私は神にある勝利と喜びを経験することなど、ないのではないかと疑いの中に落ち込みます。また、心に喜びがわき、幸いを手にする時、また再び苦しみや試練に出会うのではないかと、先々のことが心配になります。
どうしてこうなるのでしょうか。そのような時こそ、キリスト者はイエス様のほか、何事にもイエス様のほかには、救いはないという信仰に導かれるということを、苦難や恐れから救い出してくださるということへと導きだしてくださることを、このマタイのみ言葉のイエス様の「『起きなさい、恐れることはない』彼らが目をあげると、イエスのほかには、誰も見えなかった」ということの中に示されているのです。
迷い、さ迷い、疑いの日々、人生であればこそ、イエス様を離れてた、この私たちの上に手を置いてくださるお方のあることを、あらためて覚えたいものです。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」