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第87課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・39・・・
F 信仰の強い人たちは、その信仰の自由をどのように行使するべきか。
・・・14:13~23
「それゆえ、今後わたしたちは、互いにさばき合うことをやめよう。むしろ、あなたがたは、妨げとなる物や、つまずきとなる物を兄弟の前に置かないことに、決めるがよい」(14:13)。
パウロはここで、進んで新しい話題に移ろうとしています。もちろんそれは、先に彼が述べたところと相互関係にあることです。その新しい話題というのは、信仰の強い者が、その信仰の自由をどのように行使するべきであるかという問題です。
キリスト者は一人一人が神に対して、自分の行いが正しいと申し開きをするだけでは十分ではないのです。キリスト者たるものは、自分が行おうとしていることが正当であると自分に関して申し開きをするだけでなく、その行おうとしている行為によって、兄弟たちを傷つけないように注意しなくてはらないのです(Ⅰコリント10:23以下)。パウロはここでキリスト者の自由の問題と、それが如何に行行使されなくてはならないかを取り上げています。
13節は強いキリスト者に対して、語られているものと考えられます。すなわち、彼らは弱いキリスト者の前につまずきとなるものを置かないように警告されているのです。だから、私たちはここでパウロが言っているようなつまずきとは何かを考えなければなりません。
「つまずきとなるもの」と「さまたげろなるもの」とは、明らかに同じものを指しているのであって、つまずきや失敗の契機となる、あるもの、妨げとなるものを兄弟の前に置くことです。しかしキリスト者の行為において、これらの語は何を指しているのでしょうか。
パウロの意味するところを理解しるために、私たちはパウロがこの章で述べている弱い信者を性格付けているのは、どんな種類が弱点なのであるかを理解しなくてはなりません。本章を理解する場合に、この独自の点を見落としてしまって、安易に現代の問題に適用してしまうことが多いのです。弱い者の弱点とは、例えば不節制のように、罪に汚れた行動に入り浸ってしまい易いことであるといわれてきました。
この考えによると、弱い兄弟たちが弱いのは、彼らが誘惑に弱いという点にあるということになります。そして、彼らの弱点は不節制と節度を書くという点にあるということになします。
J・G ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」