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バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・15・・
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)
8 バラの伝道・・7・・
1882年(明治15)、50歳になられた先生は、名古屋から坂野嘉一氏を同伴して徒歩で瀬戸村に伝道、加藤吉太郎方で集会された。瀬戸地方の集会は1888年(明治21)10月20日信徒41名、小児3名で、瀬戸永泉教会(現日本基督教団瀬戸永泉教会)として設立された。
瀬戸伝道で信徒の家に泊られた先生に、「ニワトリを料理して差し上げたところ“私はこの家の時を告げるトケイを食べてしまった”と久しく慨嘆されていた」(伊藤虔三氏談)という逸話が残っている。
この瀬戸伝道を経て先生は、三河路に入り、奥三河の津具村(愛知県)に向かわれた。途中、三国山系戸越峠を越えられるとき「この三つの国を与え給え」と熱心に祈られたとのことである。美濃、信濃、三河を望み見る三国連山に立って、バラ先生の救霊の祈りは熱く燃えたにちがいない。
奥三河、津具村地方の伝道は、後に豊橋、岡崎伝道とともに南長老教会ミッションの伝道地としてS・P・フルトン師(1865~1938・中央神学校校長)によって引き継がれ伝道された。古い洋傘と日焼けした黒服の逞しいバラ先生の僻地伝道の姿は、これら山国の村民や宿場町の人びとに畏敬の念をもって見られていたにちがいない。
荒っぽい、そしてぎこちない日本語を話すバラ先生の言葉の背後には、温かい心と人を動かす熱誠があった。純正な福音の種を、かたくなな日本人の石の心に植え付けるためには、たとえ偶像教徒であってもこれを軽蔑したり、嘲笑する優越感はバラ先生にはなかった。
因習の石を取り除くにも、優しく振舞う外科医のメスのような細心の注意と、相手の心の傷を癒さんとする愛があった。
東奔西走、文字通り疲れを忘れたかのように前人未踏の山地を歩き回り、聖書の信仰を伝えてやまなかった先生によって、日本に正統信仰の土台が築かれたのである。
<マカルピン家の紋旗>
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」