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小閑記
天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。
=マタイ13:44=
私たちがあるとき、キリストに出会い、キリストの中に何かを見出すと、この世で得られる最上の清らかな喜び、最大の宝を得ることになります。しかし、多くの人々を躓かせるものは、キリストお一人のために、すべてを捨てなければならないということです。
なぜ、私たちはキリスト者となって、私たちの望み、欲するものを所有し、愛してはならないのでしょうか。多くの人はこの考えを正しいとは認めながらも、去って行ってしまいます。そうしてキリスト教とは、無理な厳しい要求をするものだと思うのです。
もし、あなたもそう思い、そういうご意見なら、お尋ねします。もしも夫なり妻が、多くの男や女と愛を分かち、生活を共にするとすれば、なんとお考えになりますか。それでうまく行くとお考えでしょうか。それは不可能だということはおわかりでしょう。しかもその不可能をキリスト者になろうと思う時に、愚かにもそれを心に持ち続けたいと思うのです。「二人の主人に仕えたいと思うのです」(神と富、信仰の喜びとこの世の喜びを)。
私たちが、他のものをキリストを愛すると同じように、愛そうと思うなら、人生の最も尊い宝であるキリストを所有することは出来ません。
「わたしよりも父または母を愛するものは、わたしにふさわしくない」「息子よ、娘よ、あなたのこころをわたしに渡しなさい」。
もし、あなたの人生の最大の成功と恵み得ようとするならば、生きるにも、死においても、永遠にあなたを飾る輝きを身に着けたいと望むなら、自分を全くキリストに捧げなければならないのです。この決心を挫殺しても日々求められるのがキリスト者の信仰生活です。諦めないで、追い求めましょう。
私たちを完全に所有する、ただお一人の方として主イエス・キリストを受け入れ、選んだこの賢い選択・決断の行いを、生涯の宝として持ち続けたいものです。
<バラ先生ご使用の聖餐盃>
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」