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第88課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・41・・・
F 信仰の強い人たちは、その信仰の自由をどのように行使するべきか。
・・・14:13~23
「わたしたちは、主イエスにあって知り、かつ確信している。それ自体、汚れているものは一つもない。ただ、それが汚れていると考える人にだけ、汚れているのである」(14:14)。
旧約の汚れているものと清いものとの区別は、もはや効力を持っていない。その限りにおいては、異邦人のキリスト改宗者、すなわち、強い人たちが正しいのである。しかし、彼らが銘記しておかなくてはならないことは、この点について旧約が教えている律法が、今もまだ拘束力を持っていると考える人々(ユダヤ人改宗者)は、良心的にそれを無視することができないということである。それ故に、強い者は、弱い者に対してその義務感を犯させるに至らしめるような行動は何一つしてはならないのである」(ホッジ)。
「わたしは、主イエス・キリストにあって知りかつ確信している」。パウロがここで述べようとしていることは、自分自身の理論によって到達したような結論ではなく、神の啓示によって知るに至ったものです。マルコ福音書7:14~23にあるキリストのみ言葉を暗示させるようなものがここにあります。すなわち、「すべて外から人にはいって、人をけがしうるものはない」(7:14)。主はもちろんここで宗教的な汚すものについて語っておられるのです。そしてパウロは14:14で、宗教的な汚すものについて述べています。旧約の儀式律法の中の汚れた食物についての古い区別や禁止は廃止されてしまって、今では拘束力をもってはいないです。従っていかなるものもそれ自体汚れたものとみなされるものではありません。同じ教えが語られている使徒行伝10:9~15を参照してください。
それ自体汚れているものは一つもないということが真理ですが、パウロのローマの教会に中には、まだこの単純な真理をはあくしていない人々がたくさんいたのです。彼らの考えによると、それ自体汚れていて清くないものがまだ多くあっただけです。そこでパウロは付言して「ただ、それが汚れていると考える人にだけ、けがれているのである」と言ったのです。すなわち、清くないものがなおまだあると信じているキリスト者には、それらにあずかることは安全ではない。彼らにとっては、それはまだ清くないのであるから、それを食べることによって、有罪と考えていることをすることになり、したがって彼は自分の良心を犯すことになるからです。
たとえ良心が無知であり、誤っているにしても、とにかく良心に逆らって行動することは罪なのです。
「きよくないものの肉を食べること自体は罪ではない。しかし、神によって禁じられているとその人が信じていることを行うことは、罪なのである。その罪は肉を食べることの罪ではなく、良心を無視することの罪なのである」。
J・G・ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
写真・・・地方伝道時代のバラ宣教師(1880年48歳)
日本基督公会横浜海岸教会
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」