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「キリスト教百話」
問25 キリストの再臨ということが言われていますが、それはどういうことですか。最後の審判があるとも聞いていますが・・・。
答・・3・・
キリストの再臨ということは頭の中では、なかなか理解しにくいことでありますが、このことを考える手掛かりになるかと思われる話を、キリストが語られた譬え話を借りて言うと、次のように理解されるのは「タラントンのたとえ」という、題でよく知られている話でして、ある人が旅に出かけるに際して、三人の使用人を呼んで、それぞれの力に応じて、一人に5タラントン(1タラントンは労働者の20年分の賃金相当とされています)、一人には2タラントン、もう一人には1タラントンを預けたというのです。
そこで5タラントン預けられた者は、早々出掛けて行って商売をして、ほかに5タラントンを儲けました。もう一人の2タラントンを預かった者も同様にしてほかに2タラントンを儲けました。もう一人の1タラントン預かった者は、穴を掘って主人の金をその中に隠しておきました。
かなりの日がたってから主人が帰って来て、預けておいた金の清算をはじめたところ、前述のような結果で、主人は先に二人に対しては「忠実な奴だ。わたしはおまえのことで喜んでいる。お前も一緒に喜んでくれ」と言い「これからはお前にもっと多くのものを管理させよう」と言い、1タラントンをそのまま差し出した使用人に対しては、「お前は怠け者で悪い奴だ。お前がそういうやつだと始めから分かっていたのなら、銀行に預けておいた方が、利息付きで返してもらえたのに、そういうことにならなくて残念だ。お前にはもうなにもたのまないから、とっとと出て行ってくれ」と言ったという譬え話です。この使用人は、その結果外で泣いて歯ぎしりするのであろうが、もう取り返しはつかない、という話です(マタイ25:14以下)。
この話のポイントの一つは、人間にはそれぞれに応じたタラントンが与えられているということです(タラントンということは、これに関わる言葉でありまして、それぞれに与えられてる賜物ということを意味します)。問題は、この賜物には、それを信頼と期待をもって貸し与えている主人がいて、その賜物をどのように生かしたかについての評価をするということです。その主人が何時帰ってくるか、その日のことは使用人には分かりません。が、その日が来ることは確かです。
ですから、何時帰って来られても良いように、主人の信頼と期待に応えるために精いっぱいの努力をするのが、使用人の当然の生き方となるわけです。その結果、「わたしのなすべきことをしただけのことですが、ご主人さまにこんなに喜んでいただいたばかりでなく、更に沢山の信用預かりの栄に浴しました。こんな喜びと光栄はありません」と言うことになります。
しかし、一方同じ主人であっても、この主人をただ厳しい人とだけ受け止めて、自分が信頼され期待されているとは考えていない使用人にとっては、ケチな主人の怒りを受けないようにきゅうきゅうとしているだけで、賜物も下手に損じないようにしまっておくだけとなるしかありません。
この話をどう受け止めるかは聞く人次第でありまして、特定の受け止め方だけに絞って、それ以外は認めないというような性質の話ではありません。しかし、イエスが「聞く者は聞くが良い」と言われていることに即して言うなら、この話は、われわれにも主人にあたる方がおられて、その方からそれぞれに相応しいとされている賜物(タラントン)が与えられており、何時の日か、その方から、人生の総括を受けることは確かであると信じて生きることが求められている話であると言うことができます。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・
元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」