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十戒と主の祈り・・5・・3・・
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=刻んだ像=
第二戒⑤・御子を拝む
創世記1:26~28、Ⅰコリント3:10~17、6:19
人は神に似せられて造られている者ですから、偶像のように拝まれてはなりませんし、また不信者であっても単なる動物のように見なされてもなりません。
人は神のどういう面で神と似せて造られているかについては、ウエストミンスター大教理問答の問い17の答にあるように、「知識と義と聖」において神に似せて造られました。それらを、アダムとエバはその堕落により、狭い意味では失ってしまいましたが、広い意味では残っています。
狭い意味では、アダムとエバの堕落の直後に、神は回復の道を提供してくださいました。原福音です(創世記3:15)。それを信じることで、人々には回復が与えられました。その実例がエバやセトにおいてすでに見られました(同4:1、25)。
主イエスが父のもとに行われることを告げられると、弟子のフイリポが父を見せてほしいと言いました。それに対して、主は、「わたしを見た者は父を見たのである」(ヨハネ14:9)とおっしゃり、主御自身の言葉と業から、ピリポは父なる神がどのようなお方であるか分かったはずだと言われました。主は特別な意味で父が共にいてくださいましたから、主は彼らが御自分を礼拝することを拒むことはありませんでした。
読んでいただきましたように、Ⅰコリントの信徒への手紙3章16節で、信者たち自身が、教会であるとして「神の神殿」、「聖霊の住まい」と呼ばれています。このように、キリスト者は、群れとしても、個人としても、神の住まいとされていますが、あくまで造られた者ですから、人を拝むことも、人から拝まれることも、あってはなりません。
神は、洪水の後で、ノアの息子たちにこう言われました。「人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ」(創世記9:6)。この意味は、すべての人には神に造られた広い意味の神の似姿があるので、殺されてはならないということです。それに違反すれば死の刑罰があるということです。
神の住まいを意味するソロモンの神殿は、彼の違反後、直ちに廃墟となったわけではなく、民が神殿で礼拝することなくはなったわけでもないことは、未信者にも当てはまります。信者が神でないものを礼拝してはならないことは明らかですが、未信者も広い意味の神の似姿をなおもっているのに、偶像礼拝しかできない性質の持ち主であることを認め、尊敬と憐れみをもって、狭い意味の神の似像がその人のうちに回復されるように愛する必要があります。
第二戒⑥・芸術作品
Ⅰ列王記7:13~14、10:18~20
ヤコブはラケルの墓に記念碑を建てました(創世記35:20)。ペリシテ軍との戦いの勝利を記念して、サムエルは石を立て、エブン・エゼル(助けの石)名付けました(Ⅰサムエル7:12)。しかし、同じような石柱であっても、イスラエルが「どの小高い丘にも、どの茂った木の下にも、石柱やアシエラ像を立て、主が彼らの前から移された諸国民と同じように、すべての聖なる高台で香をたき、悪を行って主の怒りを招いた」(列王記下17:10~11)ということが問題でした。
幕屋や神殿にさえ芸術的な作品がいろいろありました。Ⅰ列王記7章13~14節にありますように、テイルスのヒラムが招かれ、青銅の柱、柱頭をはじめ多くの飾りが造られました。契約の箱と関係のあるケルビムも人の手によって造られたものです。ソロモンの王宮の王座に至る6段の階段には、6対のライオンの彫像があったことが記されています。イスラエルの12部族を象徴するものでした(Ⅰ列王記10:18~20)。
しかし、旧約聖書にはイスラエルが人間の像を刻んで建てたという実例がありません。神々の像を造ることが禁じられていることが、礼拝の対象ではないとしても、イスラエル人には人の像を造ることを躊躇させたのでしょう。イスラエルの王もユダの王も、戦勝を記念した文書を記録して聖書に多く残していますが、自分の像を造らせたという記事は聖書にはありません。
オランダのドウマ教授は、宗教的な像に対する禁止は目に見える芸術作品には適用できないと言います。すでに挙げたように、ソロモンの神殿でも王宮の場合でも、芸術家の手腕が用いられ、ヒムラのような外国人の助けを必要としました。アブラハム・カイパーは、イスラエルが神の国の宗教とその勝利の担い手とされたが、芸術については同じように言えないと考えています。ドウマはカイパーの著書「カルヴィニズム」の次の言葉を引用します。
「結局、神の知恵が彼に現われていたソロモンは、イスラエルが建築の点で遅れていて、外部からの助けを必要としていることを知っているだけでなく、ユダヤ人の王である自分の行動によって、ヒムラが少しでも恥とは考えていないことを、公に示している。むしろ、ソロモンはそれを神の自然な定めと理解している」。
この第二戒の理解の誤りから、イスラエルにおける芸術作新が少ないとしても、この種の芸術作品は第二戒の違反とされることはないということです。造られたものによって神は御自身の栄光を表されるからです。第二戒は神々の像を造ることを禁じています。そして、その像に頭を下げ、仕えることを禁じています。崇拝する像を造ってはならないのであって、すべての彫刻を禁じているのではありません。
写真・・・瀬戸永泉教会堂の玄関
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」