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世田谷通信(186)
猫草
昨年、約20年ぶりに名刺を作った。ボランティア活動をしているときに、名刺を頂く機会は意外とある。シンポジウムや会議に出れば尚更。名刺をもらっても返せないと何だか収まりが悪く、名刺持ってないんです、すみませんと謝ったりしていた。
これまでずっと名前のない生活で、たいして困らなかったのだ。子どもが小さい頃はお母さん同士も先生からも「○○くんママ」「おかあさん」と呼ばれていた。子どもが成長するとそれもなくなり、名前を呼ばれるのは病院や役所ぐらい。普段は何者でも無い暮らしをしていた。別段不自由も感じないし、でも社会の役に立っているわけでもない、だれでもない、半透明な存在として自分を認識していた。図書室で働いてはいたものの、名刺を作ろうとは思わなかった。
でも今どきは学生さんでも名刺を持っている。ちょっと作ってみようかなと思って、デザイナーの友人にレイアウトをお願いした。名前とメアド、ボラ名とイラスト。フォントはペン字風のやさしい雰囲気。ネットプリントで100枚500円。ワンコインでできるんだ。なんて手軽なのでしょう。
さてめでたく名刺を手に入れても、しばらくの間は使う機会が無かった。持っていること自体を忘れていたり、名刺入れを探したり、出すタイミングを逃したり。名無し生活が長いと、こうなるのかと苦笑する。会社に勤めているときには、まず会議の前でも何でも、人に会ったら、長々と名刺交換の時間があって、役職の偉い人から順に「あ、私こういう者です」という、奇妙な挨拶をお互いにしていた。「○○と申します」って名乗ればいいのに、と思っていたが、当時は組織への帰属意識が今よりずっと高くて、個人名よりも、部署や肩書きを示す意味合いが強かったのだろう。
最近は、名刺入れを使うのを諦め、財布に数枚入れておくようにした。もごもごせずに「○○です」と名前を言えるようになってきた。どこに所属しているかではなく、自分が誰なのかを伝えるツールとして便利なものだ、名刺は。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」