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小閑記
弟子たちは出て行って、イエスがお命じになったとおりにした。
=マタイ21:6=
私たちキリスト者が、イエス様がするようにとお命じになったとおりに従うならば、物事の考え方においても、日常の実生活においても、多くのことがもっと簡単になっていたことでありましょう。自分の価値判断やいろいろの事情が優先し、ことを複雑・不透明にすることは多々あります。
小さいことと思われることでも、救い主のためにそれがなされる時は、偉大なものとなります。ロバの綱をとってイエス様のもとへ連れてくるだけで、主のみ栄と他の人々の役に立つことができます。渇く者には水を飲ませ、悲しむ者には、そっと声をかけることで、・・・。キリスト者の生活が、キリスト教的生活とこの世的生活の部分に分けられるとする考えがありますが、それは、神様のお命じになったという視点から考えるならば、成り立たないことです。
神様を信じる人々は、神の教会の中におり、どこで生き、どこで働いていようとも、神様のみ前に立ち、常に神の民の役割を神様から担っています。もし、信仰の生活、教会の生活とこの世の生活、社会の生活とに分かれているなら、それは偽善という罠に陥ってしまうでしょう。
今はあまり見られなくなりましたが、教会の礼拝に出る時、身支度して礼拝するのが当り前でした。正装したものですが、最近はそれがそうではなくなりました。普段着、労働着がいけないというのではないですが、無頓着になるならやはり一考すべきではないでしょうか。日々の生活の延長のままの礼拝には、衣服の乱れ、心の乱れに現われるとするならば、心を正す、あるいは信仰を整えることで意味あることと思いますが如何でしょうか・・・。
大切なことは、祈りと感謝をもってイエス様のために働くときの心の、信仰の制服でありましょう。
主を信じる人として、すべてのことが公の礼拝であり、イエス様のための仕事であるとみなしたいものです。
誠実なる生活をイエスのためになし、
わがすべてに主を喜ばせ
よろこばしき、自由なる心もて
忠信なる者となるは、わがために、祝福の道とこそなれ。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」