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第88課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・42・・・
F 信仰の強い人たちは、その信仰の自由をどのように行使するべきか。
・・・14:13~23・・・
「もし食物のゆえに兄弟を苦しめるなら、あなたは、もはや愛によって歩いているのではない」(15節)。
ここの「もはや愛によって歩いているのではない」という言葉は適訳です。もし強いキリスト者があらゆる環境下において、またあらゆる人々がいるところで、どんなものでも食べてよいというキリスト者の自由を行使することを主張するならば、彼らは弱い人々の上に悪い影響を与えることになるのです。他人の霊的状態を無視して自己の権利と自由のみを主張することは、キリスト者の愛の義務に反することなのです。従って、強い人々は肉を食べることによって、肉によって躊躇している弱い人々を傷付けることにならないように注意しなければなりません。
「あなたの食物によって、兄弟を滅ぼしてはならない。キリストは彼のためにも、死なれたのである」(15B)。
ここで私たちは、良心を無視することが、魂を滅ぼすような性質のものであることを知ります。強い信者が肉を食べることが、どうして弱い信者を滅ぼすことになり得るのでしょうか。肉そのものはもちろん害もないし、宗教的敵に腐敗をもたらすようなものではありません。しかし、強い信者が肉を食べることによって、弱い信者を滅ぼすことがないように注意しなくてはならないのです。「滅ぼす」(アポ オルエdestroy)という語は明らかに極めて強い語で、傷つけるとか、つまずかせるとか、悲しませるとかいう意味より、はるかに強い意味を持っています。
それは破壊的な性質と魂を破壊して神より離れさせてしまう性質をもった言葉です。もちろん、神は弱い信者を立たせることがおできになることは、全く正しいことです。さらに神があらかじめ知っておられて、生命に予定されていた人々が栄光を受けることも全く真理です(8:30)。これらのことは全て確かです。しかし、パウロはここでは信者をお支えになる神の力のことではなく、罪の破壊的な力について語っているのです。15節でパウロが「滅ぼす」という言葉を用いる時、罪はもし神の恵みによる制御の下で活動しているのでなければ、どのようなことになるかについて述べているのです。
神の恵みによる制御の手から離れてしまう時、罪は確かに罪人を永遠に滅ばしてしまうのです。そして弱いキリスト者は、自分の良心に反した行為をするとき罪を犯してしまうのです。強いキリスト者は、まず止まってよく考えてみなくてはならないのです。罪とは如何に恐るべくも危険なものであるかを考えなくてはなりません。彼は自由を行使するにあたって、この点をまず考え、彼らの自由の行使が、弱いキリスト者を導いて罪を犯させることにならないかを考えなくてはならないのです。
今日の時代において、きよい肉と汚れた肉という問題はもはや論争点とはなりません。しかし、15節において具体的に示されている原則は、依然として真理であり有効であることを知らなくてはなりません。強いキリスト者は弱いキリスト者を滅ぼすことにならないように、その自由を行使しなければなりません。この原則を適用することができる事例は今日いくらでもあります。
パウロの時代がそうであったように、神によって禁止されていない事柄について、良心的に迷っている人々は今も多いのです。例えば、真面目なキリスト信者の中には生命保険は有罪であると考える人々がおります。大多数のキリスト者は生命保険は道徳的に正しいと主張します。そして彼らはこれに加入する権利を持っています。しかし、彼らは迷っている人々を説得して、それに入らせようとしてはならないのです。弱い人々が良心に逆らって行為して、罪の破壊的な力の犠牲者となってはならないためです。
J・G・ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」