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「キリスト教百話」
問24 キリストの再臨ということが言われていますが、それはどういうことですか。最後の審判があるとも聞いていますが・・・。
答・・4・・
しかし、一方その方がやたら厳しい方であって、迂闊なことをしようものなら、厳しいお咎めを受けるしかないということになるのであれば、あまりあれこれしないで、じっとしていた方が良い、という生き方が出てくる話でもあります。
そこで、この話をキリストの再臨ということに即して考えるならば、先ず神はキリスト共に生きておられる方であるということです。そしてわたしたちはそれぞれにふさわしいかお考え賜物を与えられて、それがどのように喜ばれるように生かされたか、期待して待っておられる方であるということです。
わたしが、もし自分の人生を、自分を超えた存在によって与えられ、そこに貸し与えられた賜物をどう生かしたかを問われる方の下で生きている者であると受け止めるなら、最終的な評価(審判)を受けるときが来ることは、それがいつの日のことかわからないにしても当然のこととするのでありますし、この方に喜ばれるように生きることを志すこともまた当然のことであります。
これらのことはいずれもキリストの再臨を信じるという信仰によることでありまして、「そういうことは信じられない」ということは、理性的には「その通りです」と言いつつ、「そういうこととは全然違います」ということであるわけです。
マザー・テレサはインドの路上で弱り果てて横たわっている老人を見て「イエス様がここにおられることを知った」という旨のことを言われたと聞いています。そうだとすれば、キリストの再臨はいつの日とも言えない終末的な事柄であるとともに、日常的なこととして、体験する出来事でもあると言えます。それはキリストが今も生きておられるからに外なりません。ある人は「キリストの再臨は終末における事柄であると共に日々の日常的な事柄でもある」と言っています。
「いと小さき者の一人」においてのキリストとの出会いはあります。終末的な事柄の現在性があると言えるのではないかと思います。それがキリストによって与えられている信仰ではないかと思っております。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・
元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」