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十戒と主の祈り・・6・・1・・
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=主の名=
第三戒①・利用する
出エジプト記20:7、使徒19:11~20
第三戒の「主の名をみだりに唱えてはならない」という禁止の命令は、もちろん、主の名を口に出してはならないということではありません。聖書のどこにも「主(ヤーウェ)」というヘブライ語では4文字の言葉(YHWH)ですが、それを口にしてはいけないと記されてはいません。
問題は、どういう目的で主の名が用いられるかです。聖書には偶像の名がしばしば出てきますが、それらが礼拝の対象とされることが禁じられます。同じように、主の名が誤った目的に用いられることが禁じられます。
誤った目的で用いられる場合としては、どのようなものがあるでしょうか。ドウマ教授は、それを三つのケースに要約しています。
使徒言行録の19章では、神がパウロの手を用いて、目覚ましい奇跡を行なわれ、彼の所持品にさえ驚くような力があったことが報告されています。つまり神がパウロを用いて御自分の大きな働きをなさったということです。祭司長スケワという者の7人の息子たちは、神に用いられたのではなく、逆に神の名が自分たちの支配下にあるかのように、自分たちの誉れを示すために、イエスの名を利己的に利用して、悪霊を追い出そうとしました。
しかし、使徒パウロと違い、イエスを信じていない彼らが、イエスの名を騙って、その力を引き出そうとしているのを見て、悪霊は彼らに襲いかかりました。それは、エフェソの人々に恐れを抱かせ、イエスの名がかえって崇められるという結果になりました。
自分の誉れのために主の名を利用して、みだりに唱える第二のケースとして、偽預言者があります。預言者とは将来を予告するという狭い意味よりも、神から語るべき言葉を預かった者、という広い意味で聖書で使われます。したがって、偽預言者とは、主から語るべき言葉を預かっておらず、語るように遣わされていないのに、「主は言われる」と騙る者のことです。
預言したことが実現しないとき(申命記18:22)、預言したことと反対のことが起こるとき(Ⅰ列王記22:35)、神に遣わされていない事実を隠すとき(エレミヤ14:15)、彼らは偽預言者であることがはっきりします。
自分の誉れにために神の名をみだりに唱える第三のケースとして挙げられるのは、偽りの誓いです。誓いについては、私たちの信仰生活と最も関係がありますので、機会を改め扱いたいと思いますが、ここでは、偽りの誓いを主の名を用いて、真実の誓いであるかのように装うことの問題です。
「神の名にかけて誓う」ということを、「主は生きておられる」(エレミヤ5:2、エゼキエル14:16、ゼカリヤ5:4)という表現をもって、偽りの誓いをいっそう真実なものに見せようとしていることが問題です。
第三戒②・わたしはある
出エジプト記3:7~15、9:16、詩篇106:8
ドウマ教授は第一戒、第二戒と違って、神はご自分のことを語られるのに、初めて一人称から三人称に変えておられることに注意を向けるように言います。「わたしをおいてほかに・・・神としてはならない」「いかなる像も造ってはならない・・・わたしは主である、あなたの神」というように一人称から、今度は「わたしの名」とは言わないで、「あなたの神、主の名を・・・みだりにとなえてはならない」と言うように、御自分のことを三人称で述べておられるからです。なぜそのようになさったかということですが、ヤーウエ(主)という名そのものに注目させるためであると言います。
神ご自身が、モーセの問いに答えて、ご自分の名について説明なさった有名な個所が出エジプト記3章にあります。10節にあるように、神はモーセに、ご自分がイスラエルの民をエジプトから約束の地に導き上ることを告げます。そして、モーセを召し出して、彼をエジプトの王のもとに遣わす計画を語られました。モーセは尻込みしましたが、やがてこの山でモーセは民と共に神に仕えることになるという約束を与えられ、決意しました。
その時、モーセは自分を遣わされた神の名を民から問われることを予想して、神の名を尋ねました(3:14)。それに答えて、神はご自分が「わたしはある」という名の神であることをお告げになりました。それは四文字の言葉で、英語で記せばYHWHで、ヤーウエと発音される名でした。それは、「私は救い主として存在する」とか、「わたしは語ったことを実行する」という意味であり、主なる神とはどういうお方であるかを示すものでした。ここでは、彼の先祖アブラハム、イサク、ヤコブに約束されたことを実行する神、イスラエルを救い出す神として、その名の意味が明らかにされました。
エジプトの王に語るべきことをモーセに命じられた神は、9章16節で、「わたしは、あなたにわたしの力を示して、わたしの名を全地に語り告げさせるため、あなたを生かしておいた」と言われ、異教徒であるエジプトの王さえも用いて、ご自分がどういうお方であるかを明らかにされるとおっしゃいます。
また同じことを、詩篇の記者は主なる神が、イスラエルの民を敵から救うのは、やはりご自身のヤーウエという名がそうした意味を持っていることを、歌っています。「主は、御名のために彼らを救い、力強い御業を示された」(106:7)キリストによって救ってくださったのも同じです。
「みだりに唱える」の「みだりに」(ラシャア)は、「勝手気ままに」ということなら、神の名を口にしないようにという消極的な戒めになりますが、そうではなく、この素晴らしい意味を持つ主の名が、誤りなく正しく崇められるようにという勧めです。
写真・・・10歳のJ・A・マカルピン(1915年)
幼年期のJ・A・マカルピン(1910年) 於横浜
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」