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第89課 キリスト者生活の実践的義務
=12:1~15:13=・・・43・・・
F 信仰の強い人たちは、その信仰の自由をどのように行使するべきか。
・・・14:13~23・・・
「それだから、あなたがたにとって良い事が、そしりの種にならぬようにしなさい」(14:16)。
これは多分、強いキリスト信者に対して言われた言葉でしょう。そして良い事というのは強い信者たちの肉を食べる自由を指していると考えられます。だから、ここの意味は「それ自体は良い事であるあなたの自由を、悪とすることの機会としてしまい、自分の上にそしりをもたらす結果とならないようにしなさい」ということです。
「神の国は飲食ではなく、義と、平安と、霊における喜びである」(14:17)。
「これは抑制・忍耐・寛容を勧める新しい理由である。自由の行動を抑制しても、そこには、いかなる義務の原則も犠牲にされてはならないし、宗教にとって必須なものは何一つ無視してはならない。何故ならば、宗教は外に現われた行為にあるのではなく、聖霊の内的な恵みにあるからである。ある肉を控えることは罪を犯すことにはならない。だから、他人の益のために食べないことが必要であれば、私たちは食べないようにするべきである」(ホッジ)。
旧約の儀式律法の下では、外的なものが強調されている。しかし、キリスト教は違うのである。神の国―その民の上に及ぶ神のご支配―は飲食のような外的なものにあるのではない。それは、み霊による義、平和、喜びのような霊的なものに存するのである。「これらの言葉はその聖書的な意味で解釈されなければならない。ここでパウロは、キリスト教の道徳性に存するとか、公正で平和を愛する明るい人が真のキリスト信者であるなどとは決して言っているのではない。そのように考えることは、このローマ書全体の論旨と矛盾するものである。義と平和と喜びとは、聖霊が生み出したものである。義は私たちを神の御前に立つことを得させるものである。何故ならば、それは神の律法の要求を満たすものであるからである。
それは客観的と主観的の両面において、信仰による義である。平和とは神と人間、理性と良心、私たちの心と兄弟たちとの間の一致である。そして喜びとは、救いの喜びである。聖霊との交わりの中にある者だけが経験できる喜びなのである(ホッジ)。
J・G・ヴォス著
玉木 鎮訳(日本キリスト改革派教会引退教師)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」