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「キリスト教百話」
問25 キリストの再臨では「最後の審判」があることが信じられているのですが、それはどういうことですか。
答・・1・・
前に聖書の中にあるキリストが語られた「タラントンのたとえ」の話を紹介しましたが、あの話に出てくる主人がもしあなただったら、あなたはどうするでしょうか。つまり、自分が遠方へ出かけるので、留守をあずける使用人に対してそれぞれ、五億、二億、一億という風にカネを預けておいて、相当期間を置いて帰宅した場合、その清算を求めないでしょうか。もちろんその金額が百円や千円単位のものであれば、預けるとかあずけられるなどということはたいして問題にはなりません。
問題になるのは仇おろそかにはされないであろうと信じて、それを失ったら大損害を被るほどの大金を預けた場合のことです。帰宅したあなたは、必ずその清算を求めるでしょう。もし、あなたが帰宅後直ちに清算を求めなくても、預けられていた側からは、進んで清算結果を報告するでしょう。それが信頼に答える当然の姿勢です。いずれにしても清算をしないままで放っておきはしないでしょう。仮にもその相手から何の応答もないままで過ぎることがあったら「あれはどうなったか」と問いかけ、その結果、預けたことが何の意味も効用もなかったとすれば「もう君はわたしにとって無用な人間だから、どこへなりと勝手に出て行ってくれ」ということになりはしないでしょうか。
以上の話は「もし・・・」という前提での話ではありますが、その前提は、あなたがことがらをうやむやにしないできちんと処理される方であると信じてのことであります。
それで、もし、この前提が成り立つとすれば、一つはわたしたちの人生という実に貴重なものを神様から預かっている者としては「あなたの人生はどうであったか」と問われる時が来、そういう場に立たされるのは避けがたいことであると思われるのではないでしょうか。そして、そうであればこそ、この信頼と委託に答えるために人生を生かしたいと、願うのではないでしょうか。
もし、あなたが、以上のようにではなく、事のけじめなどどうでもよいというふうに振舞っておられるなら、使用人もまたかなりいい加減にしか生きないでしょう。主人も使用人も、それっきりで終わりです。最後の審判なんかあり得ないし、問題とも思っていないでしょう。
以上のことから言って、最後の審判ということは、わたしたちが、自分の人生というものをかけがえのない貴重なものとして、わたしたちの主である神様から、信頼されて、預けられていると信じ受け止めている者において、その人生の展望の中に入ってくる、必然的な視野というべきものであると言うことが出来ると思うのであります。
篠田 潔
(日本基督教団隠退教師・
元「キリストへの時間」協力委員・ラジオ説教者)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」