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バラ・マカルピン 日本伝道百年史・・18・・
水垣 清著
(元中津川教会牧師・元「キリストへの時間」ラジオ説教者)
9 R・E・マカルピンの来日・・2・・
横浜に着かれた日は、肌寒いどんよりとした曇り日であった。そこにはバラ先生が若いマカルピン師とグリナン師を出迎えに来ておられ、開港しても桟橋のない横浜港は、はしけで上陸しなければならなかった。初めて人力車に乗ってバラ先生宅に着いたマカルピン師には、人力車は興味のある乗物で、東洋の国日本に着いた感慨を深くしたに違いない。また、まぶたに深く焼き付けられた富士山の雪をいただいた船よりの風景も、一生忘れられない思い出となったである。バラ先生夫妻や二人の令嬢の温かいもてなしに心も和んで、日本での貨幣の計算方法や郵便の出し方、品物の買い方など、早速勉強しなければならない仕事がたくさんあった。
日本の教会とミッションとの合同委員会での協議の結果、名古屋と高知が伝道地として候補に上げられた。数日後、横浜から船で名古屋へ、港から人力車で市中へと、不便な道中であった。広い尾張平野の大きな町であった名古屋には、バラ先生の伝道の成果で名古屋教会(現日本基督教団名古屋教会)が先年建設されたものの、クリスチャンホームは、一、二軒に過ぎなかった。名古屋の伝道計画をあれこれと考えながら、比較的信徒の多かった瀬戸の町もバラ先生や坂野嘉一牧師に案内されて視察した。
名古屋地方は仏教、とくに浄土真宗の盛んなところで、特に明治初年以来、文明開化と共に盛んになってきたキリスト教に対しては、激しい反感をもっていた。美濃、尾張地方は、安土、桃山時代、織田信長、豊臣秀吉の生まれた土地であり、信長の切支丹援護政策によって、岐阜、清洲、名古屋にはおおくの信徒が住んでいたが、徳川の天下になって、その幕藩体制と仏教国教政策から、キリスト教禁止による弾圧の迫害が行われ、名古屋の千本松原では三千の教徒が殺された史実があり、キリスト教邪宗観の強い土地柄であった。
さらにもう一つの伝道候補地の高知は、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の行われた地であり、自由民権の運動と共に新時代への政治に目覚めて、キリスト教受容の進取的気風が強く、すでに有力な政治家たちのキリスト教入信によって、教会建設も先年達成したところであって、他の宣教師の勧めもあって1886年(明治19)1月、高知県視察に赴くことになった。R・E・マカルピン師はグリナン師とほかにミロル宣教師夫妻が同行、22日出発、26日火曜日午後高知に着いた(ミロル宣教師Miller Edward Rothesay1843~1915、1872年(明治5)5月に来日、米国長老教会宣教師)。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」