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十戒と主の祈り
鈴木英昭著
(元日本キリスト改革派名古屋教会牧師)
=主の名=
第三戒③・誓い
創世記31:43~54、マタイ5:37
「主の名をみだりに唱えてはならない」という第三戒に関して、ウエストミンスター大教理問答の問113は、誓いについて教えています。この点について第三戒を考え、聖書が教えていることを学んでおきましょう。
普通、誓いには、自分が真実を語っていることを主張する意味で誓う誓いと、何かを約束するためにする誓いの二つがあります。前者は自分の証言が神の名にかけて真実であると誓います。証言を受け入れてもらえないとき、あるいは相手や人々に受け入れようとする意志が初めからないとき、神様に証人となっていただいて誓うために、「そこまで言うのなら」ということで、何らかの前進が見られるときがあります。これを「主張としての誓約」(assertory oath)と言います。そして、後者のように約束としての誓いをする場合、例えば、洗礼式での誓約や、教会役員の任職式・就職式での誓約のように、その職務をこれから果たすことを誓う場合を「約束としての誓約」(promissory oath)と言います。
創世記の31章に記されている有名な実例として、ラバンとヤコブとの間の誓いがあります。ヤコブがハランに滞在していた20年の間に、伯父ラバンはヤコブの結婚相手となる自分の娘のこと、ヤコブの財産となる羊のことで、ヤコブと結んていた約束を破りました。そういう意味で、ヤコブにはラバンに対する不信感があったわけですが、自分の妻の父親であること、父の下に滞在していた間に、妻たちを与えられ、子供たちが与えられ、多くの羊や家畜が増えて財産を持つことができたことを思うと、約束の度々の不履行に悩まされはしたものの、耐えてきたのでしょう。ヤコブ自身が兄エサウを騙して、父の祝福を兄から奪ったことも、ラバンに対して忍耐を可能にしたのかもしれません。
ラバンは自分の守り神の偶像を、ヤコブが盗んでいないのを認めると(事実は彼の妻ラケルが盗んでいて、ラクダの鞍の下に隠し、その上に座っていた)、ヤコブとの間に互いの不可侵と、ヤコブがラバンの娘である妻たちを苦しめないためのことを約束させています。これが約束の誓いの実例で、平和を得るための一つの手段となっています。
前者の真実を誓約することに関して、主イエスが山上の説教の中で、「一切誓いを立ててはならない」と言われたことが誤解されて、誓いをすることそれ自体を拒否する人々がいます。この主イエスの言葉と同じことを、主の兄弟ヤコブもその手紙の5章12節で、こう述べています。「わたしの兄弟たち、何よりもまず、誓いを立ててはなりません」。これについては、次回で学びますが、なぜこのように語る必要があったかが分かると、よく理解できます。主イエスは誓いをすべて禁じたのではなく、誓いは、特に教会において、「然りは然り」、「否は否」(5:37)とはっきりするように言われたのです。平和や秩序はこうして保たれるからです。
第三戒④・世俗の誓約
創世記31:43~54
前回は、山上の説教やヤコブの手紙に教えられている「誓ってはならない」という、誓いに消極的な教えは、誓いそのものを否定しているのではなく、「然り、然り、否、否とせよ」ということで、不誠実な誓いを禁じていることを学びました。というのは、天や地やエルサレムなどを指して誓ったことは、果たす義務はないというようなことが教えられていたからです。
今回は、キリスト者とキリスト者でない人々との間の「誓い」について考えてみます。16世紀のアナバプテストのなかに、そして、現在でもルター派などの敬虔主義の流れの中に、あるいは長老派のなかにさえも、この世で誓約が求められるために、政治に関わることや、公務員になることに消極的なキリスト者がいます。
しかし、どの国でも、国民は憲法に従う義務があり、同時に憲法が保障する権利を与えられています。その憲法の内容が誤っていて良心的に従うことができないなら別ですが、そうでなければ公共の益となることには市民として従うことを誓約しています。
例えば、公共料金を支払ったり、選挙の投票に参加したりするのは、誓約を果たしている一つの姿です。病院に入院して、手術を受ける時、「誓約書」のようなものを書くように求められて、それに従うのも同じです。
教会において、私たちキリスト者は神を証人として誓いますが、この世で世俗的な事柄について誓約するとき、相手が聖書の神を信じていないために、その相手とは誓約できないことを考える必要はありません。聖書にはこうした場合にも誓約がなされなければならないことが幾つか記されているからです。
例えば、読んでいただきましたヤコブとラバンの誓約は、それぞれの神を指してなされていて、同じ神ではありません。ラバンが偽りの神の名によって誓約していますから、そうした罪はありません。しかし、誓約したことの内容を守る責任は両者にあり、こうした誓約はこの世において必要なことです。
キリスト者は世のものではありませんが、世に生きています。世から出て行くことはできません(Ⅰコリント5:10)。教会では不品行者とは共存できませんが、この世で不品行者や偶像礼拝者と共存することを避けることができません。
大祭司カイアファが主イエスに向かって、「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか」と答えを要求した時、イエスは、「それはあなたが言ったことです。…」とお答えになり、御自分が審判者であるメシアであることを断言なさいました。ですから異教徒の前でも誓約することは必要ですし、それは義務です。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」