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小閑記
わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。
=マタイ4:19=
多くのキリスト者は、神のために何をしているか、何をしてきたかと考え、それを生涯の重荷と感じてしまうことがあります。
母親は、毎日毎日、また来る日も来る日も、来る年も来る年も、ある場合にはそのほとんど一生の間、洗濯をしたり、料理をしたりして、一日を終わっても、その働きの評価、結果は数値では見られません。
いろいろの職業があります。事務の仕事は書いたり、帳簿を付けたり、工場で働く人は機械に着き、決まった工程の仕事をし、農家の人は畑や森で働いています。単調で、日常的なその働きが神のために何の結果があるのだろうかと思う時もありましょう。しかし、その一つ一つは小さいものでも欠くことの出来ないものです。「労働は神礼拝」そのものなのです。
冒頭のイエス様が言われたことを、考えてみましょう。「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。
このみ言葉は12弟子に特に適用されたものですが、イエス様に従う全てのキリスト者は、世の中で、どのような地位や職業にあっても、人間を漁る漁師になることは、全く真実です。
神の国においての問題は、私たちの性質の問題です。もし私たちが、イエス様のみ旨を第一として生き、働くなら、私たちは、このイエス様に従うのであり、主は私たちを人間をとる漁師にしてくださるのです。これは決して間違いのないことです。ただ、宣教師、牧師、あるいは説教者のみが人々を神のもとに連れてくることが出来ると考えることは、神様のみ旨ではありません。
むしろ、日々のその為すことにおいて、救い主を証ししていることに感謝を覚えるとき、そこに、ついていく「献身の思い」があるのです。
「・・・あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。・・・自分の益ではなく多くの人の益を求めて、・・・」(Ⅰコリント10:31、33)。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
いのちのことば社
スーザン・ハント
「緑のまきば」
「聖霊とその働き」